「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「これからも・・・」

2018年01月28日 | つれづれ噺

             

また一つ喜寿に近づいた。というか、満年齢の喜寿目前。数え年でいう、まさに喜寿を迎えさせてもらった。
「喜寿」と書くと、何かおめでたい意味でも隠されていそうであるが、実はさほど大したことではない。がっかり。
つまり「喜」の字の草体「㐂」が「七十七」と分解できるところから、 数え年の七七歳。また、喜の字の祝いのことである。

そんなことじゃなくて、喜寿を迎えてつらつら思うみるに、真っ先に頭に浮かんでくる言葉、それは唯一つ「感謝」である。
先ずは、両親に捧げたい。この歳を人並みに元気に迎えられたこと。そんな丈夫な身体を授けてくれたことへの大きな感謝である。

次に「亭主の好きな赤烏帽子」にも目立った反論もせず、時に呆れ顔を見せながらも、常に日陰のつっかい棒の役割に徹してくれた山の神に。そして子供時代から現在まで、天文学的数値とまでは行かないまでも、想像を絶するほど多くの関りをもった人たちに、喜寿を迎えたことの報告と感謝の気持ちを捧げたい。
ともすれば、「俺の人生、俺の想いのまま生きて来た」などという思い上がったご仁も少なくなかろが、小生の場合それほど傲慢ではない。

とにもかくにも後期高齢者指定を受けて丸1年。元気にやり過ごして今がある。わずかではあるが、地域活動にも精を出している。
それもこれも、根源には「人並みの元気さ」を持っていること。「もっと何かが出来るんじゃないの?」という欲があることかな。
それならなお一層、この元気・健康を保つ努力を忘れてはならない、と解ってはいるのだが、具体的な対策や方法を訊かれるとねー。

「また一つ残された時間が短くなるんだよ」という神のお告げには逆らえないので、これまでやってきたと同じように、慌てず急がず、出来ることには全力投球で、愚直にゆっくりボチボチ前に進んで行くとしよう。そう思うと、喜寿を迎えた今も少し希望が湧いてくるような。

ただ、今まで通りには出来ないかもしれない。が、これからも身体と頭が動く間は何とかしたい。欲張りかもしれないが。

コメント (2)
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