「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「オリンピックって」

2018年01月10日 | ニュース・世相

                        

世界中が大騒ぎする「オリンピック」っていったいなんじゃろう?と思うことがある。
2年半後に迫った東京オリンピックに先立って、幅広い当事者に、それぞれの見解を質してみたいな、などと改めて考えさせられるこの頃である。
先ずはIOCと呼ばれる国際オリンピック委員会の役員さんたちの腹の内。次にJOC日本オリンピック委員会のお歴々の思惑。
引き受ける東京都、その周辺の首長の対応の理論。陰で支えるボランティアや一般市民の声。そして何よりも訊きたいのは、出場を目指すアスリートたちの本音である。

答えはおおよそ見当はつく。先ずは建て前論に終始。次いで発言者の立ち位置を基準にした、差しさわりのない一般論。まあこんなところか。
要は、今まで色々耳に入ってきていることの繰り返しなのだろう。それも無理からぬ話で、仕方ないかなと、大人の対応をしてみる。
本音なんて滅多やたらに口に出せるものではない。特に出場を目指すアスリートたちは、寡黙がサマになるようだ。

それがこのたび、くしくも『前代未聞のスキャンダル』として、アスリート自らの本音が、行動として表に出る形となった。
オリンピック出場選考会のライバルに、ドーピング疑惑をオッかぶせて追い落とし、自らが出場権を得ようとする「カヌー選手」の話である。「なんとまあ下らん話、スポーツ選手たる資格なし」と一刀両断に切り捨てる気持ちの奥で、ある意味「無理もないよな~」と、妙に頷く自分がいることに驚く。4年に1度のチャンスに向かって最高の状態にするため、努力に努力を重ねたところへ、年下の若い力が台頭して来る。なんとかしないとそれまでの自分の努力が無に帰してしまう危機感。判らぬでもないからである。そこには社会全体が今少し反省を要する部分がありはしないか、問うてみたい気持ちがある。

子どもを取り巻く親や指導する大人たちにも、大いなる責任があるのではないだろうか。
物心ついたころから、負けを受け入れることを教えてきたか。勝つことの喜び以上に負ける悔しさを植え付けてきたか。と問いたい。
兄弟げんかをする相手がいない子が多い。親が叱らないから、先生はじめ友達など他人から叱られたりいじられたりすることに拒絶反応を示す。いわゆる耐える強さや柔軟性に欠けている。などとあれこれ思う。
だから、野球選手を目指す孫には、練習にも試合にも、ジジの厳しい叱咤激励が飛び続ける。もちろん肩をほぐしてやりながら「よーやったねー」と褒めちぎることも忘れてはいない。叱咤激励が三っつ。褒めるのが一つないし二つ。これでいい。今後もこれで行く。

小生などがとやかく言わずとも、世の識者や教育者が対策を練られるのだろうが、通り一遍の建前論や一般論では、収まる話じゃなさそう。
芸能界でも「人をおとしめる」どす黒い流れは日常茶飯事だと、女性俳優が公表していた。
ただ、芸能界とスポーツ界は違う。相手を追い落とせるのは、己の力が相手を上回ったときだけである。 などと偉そうなことを考えさせられた正月10日の夢である。

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