「ご馳走」という言葉がある。
馳走とは、かけはしること。奔走。 あれこれ走り回って世話をするという意味である。
相手のことを思って準備に奔走する気持ちの表れから、「ふるまい」「もてなし」「饗応」など、こころよく接待をすることをいうようになった。
それらが要約されて、馳走とは、豪華な食事。うまい食べ物。となり、「ご馳走」は、馳走の丁寧語。と記されている。
急なお客あったとき、どのようにしてもてなそうか迷う。そんな時には先ず家の周りにある畑に走る。
つまり、お腹を満たしてもらうために、食材を求めて足を運ぶ行為。それが、来訪者へのおもてなしの心につながる。
それは必ずしも豪華でなくていい。急ごしらえの質素なものでいい。問題はその奥に潜む、真心の有り無しなのだということか。
2020年のオリンピック招致合戦の結果、東京開催が決定。正直、心躍る期待がある。
何を隠そう、後7年元気に生きて、東京オリンピックをこの肌で実感したいという、単純にして明快な健康願望が一段と強くなり、それなりの健康管理の起爆剤になったことを、喜んでいるだけかもしれないが・・・。
何はともあれ、きわどい招致合戦を経て、マドリードとイスタンブールを抜いて東京に決まったわけである。
その大きな原動力となったのが、プレゼンテーションという名の「東京紹介・日本の良さをアピール・日本人の心根をPR」といった一連の各界を代表する面々の熱意が、大きく明暗を分けたという感は否めない。その中で紹介された「お・も・て・な・し」は、来訪者を歓迎し、心を込めた受け入れ態勢を整えることの大切さを、改めて思い起こさせるきっかけになったのも確かである。
大枚のお金をかけて、最高の素材を手に贅沢を尽くせば「ご馳走」はできる。それは誰がやっても一通りのことはできる。
ただそれは飽くまでもご馳走の話である。オリンピックは、それぞれの国を代表する世界のアスリートが威信を背負って日本にやってくる。そこには、ご馳走を超えるおもてなし、つまり心地よく競技に臨める下地を作るのも大きな要素となる。
遠くに住む子や孫が実家の温かさを期待して戻ってくる。何はおいてもその接待に没頭する。それが故郷を守る者の務めならば、オリンピック選手を受け入れる日本全体が、母親の心や、祖母の気持ちになって迎えることができるなら、これに越した「お・も・て・な・し」はないのだろう。 7年後が楽しみである。