本日も昨日お約束したようにZARDのお話です。なにかといえば、坂井泉水さんの詩についてです。
先日来、やはり急にZARDファンになった老母の要求で大きな字で歌詞カードを作っているのですが、メロディから離れて文字だけで泉水さんの詩を追っていると、曲になった時とは全く別のイメージになっていくことに気づき、驚いたのです。いまごろ気がついたのか、と言われてしまいそうですが、ほんとうにイメージがガラッと変わってしまうのに改めて驚かされたのです。
言葉だけを見ていると、詩を構成する文字列からは、どちらかというとマイナーコードのイメージが強く感じられるのです。わたしの受け止めが少しオフセットしているのかもしれませんが、例えば『負けないで』のようなアップテンポの曲でもそう感じたのです。詩だけ眺めていると「勝利をわが手に」というような、歌い上げるコトバでなしに「負けないで」という、ある種切ない言葉を選んでいることなどからか、不思議にも濃い霧に包まれたような短調のイメージに重なってしまうのです。『雨に濡れて』なども同様な感想を持ちました。もちろん個人的な感想ですので、非常に一面的な理解であろうと思いますが。。。
ところが、これがいったん曲を得ると、くるりとメジャーに転じていることが多いのに気付いたのです。「おっとどっこい」といった驚き、といったら分かって頂けるでしょうか。切ない(はずの)言葉が曲に乗ると健気な元気を発してトントンと耳に心地よく響くのです。この曲調が泉水さんのクリアボイスを得ることでいわゆる「人生の応援歌」と評される、元気が出るZARDの楽曲になっていくのかな--とファン歴1年未満の初心者&音楽シロウトは考えたのでした。
不肖わたくしは大学では一応国文科という(あまり世の中に影響力のなさそうな)学科に籍を置いておりましたので、恥ずかしながら短編小説執筆とか詩作とかいったことも僅かに行なったことがあるのですが、書くにあたっては積極的に取材して世の中にありとある事柄を取り込んで、さらにわがものとして熟成させておかないと、一行の文章といえどもオノレ一人の狭い認識を超えられないのだな、ということを体感したものでした。まさに私小説的な世界でありますね。ただでさえ資源に乏しいのに、ものぐさを決め込んでは何もできないのです。
多感、という言葉がありますが、世の中に漂っている無数のことを敏感に感じ取ってわが身に取り込んでおくことが、アウトプットの前提条件なのだといえましょう。
この多感なセンサーを「才能」という単語に置き換えてみれば分かりやすいかも知れません。センサーの感度やその多面性は皆同じというわけでは(残念ながら)ないのはご承知のとおりです。この観点からすれば坂井泉水さんはまさに「才能」に満ち溢れた方だったのだな、と改めて思い知ることになったのでした。日常のさり気ない口語をそのまま音に載せて人に長・短さまざまに感じさせる才能は当代のほかのだれもが容易にまねできない世界であったと思います。
寺尾広さんがTVの特番で「類まれなる(詩の)センス」と仰っておられましたが、まさにそのとおりだと感じました。それだけにその逝去の重さや喪失感が、後れてきたファンとしては、ことさら大きく感じられるのです。本当に大事な人を失ってしまったのだ、という思いが強く胸に迫ります。
そういったわけで、ひょんなことから泉水さんの詩を別な角度で味わってみて新たな観点を発見しましたので、愚考ながらお眼にかけることにしました。繰り返しますが、あくまで個人の勝手な感想ですので他意はありません。
ZARDの歌詞を、これからは一遍の詩としても味わってみようと考えたことでした。
←長駄文にお付き合いくださりありがとうございます。
先日来、やはり急にZARDファンになった老母の要求で大きな字で歌詞カードを作っているのですが、メロディから離れて文字だけで泉水さんの詩を追っていると、曲になった時とは全く別のイメージになっていくことに気づき、驚いたのです。いまごろ気がついたのか、と言われてしまいそうですが、ほんとうにイメージがガラッと変わってしまうのに改めて驚かされたのです。
言葉だけを見ていると、詩を構成する文字列からは、どちらかというとマイナーコードのイメージが強く感じられるのです。わたしの受け止めが少しオフセットしているのかもしれませんが、例えば『負けないで』のようなアップテンポの曲でもそう感じたのです。詩だけ眺めていると「勝利をわが手に」というような、歌い上げるコトバでなしに「負けないで」という、ある種切ない言葉を選んでいることなどからか、不思議にも濃い霧に包まれたような短調のイメージに重なってしまうのです。『雨に濡れて』なども同様な感想を持ちました。もちろん個人的な感想ですので、非常に一面的な理解であろうと思いますが。。。
ところが、これがいったん曲を得ると、くるりとメジャーに転じていることが多いのに気付いたのです。「おっとどっこい」といった驚き、といったら分かって頂けるでしょうか。切ない(はずの)言葉が曲に乗ると健気な元気を発してトントンと耳に心地よく響くのです。この曲調が泉水さんのクリアボイスを得ることでいわゆる「人生の応援歌」と評される、元気が出るZARDの楽曲になっていくのかな--とファン歴1年未満の初心者&音楽シロウトは考えたのでした。
不肖わたくしは大学では一応国文科という(あまり世の中に影響力のなさそうな)学科に籍を置いておりましたので、恥ずかしながら短編小説執筆とか詩作とかいったことも僅かに行なったことがあるのですが、書くにあたっては積極的に取材して世の中にありとある事柄を取り込んで、さらにわがものとして熟成させておかないと、一行の文章といえどもオノレ一人の狭い認識を超えられないのだな、ということを体感したものでした。まさに私小説的な世界でありますね。ただでさえ資源に乏しいのに、ものぐさを決め込んでは何もできないのです。
多感、という言葉がありますが、世の中に漂っている無数のことを敏感に感じ取ってわが身に取り込んでおくことが、アウトプットの前提条件なのだといえましょう。
この多感なセンサーを「才能」という単語に置き換えてみれば分かりやすいかも知れません。センサーの感度やその多面性は皆同じというわけでは(残念ながら)ないのはご承知のとおりです。この観点からすれば坂井泉水さんはまさに「才能」に満ち溢れた方だったのだな、と改めて思い知ることになったのでした。日常のさり気ない口語をそのまま音に載せて人に長・短さまざまに感じさせる才能は当代のほかのだれもが容易にまねできない世界であったと思います。
寺尾広さんがTVの特番で「類まれなる(詩の)センス」と仰っておられましたが、まさにそのとおりだと感じました。それだけにその逝去の重さや喪失感が、後れてきたファンとしては、ことさら大きく感じられるのです。本当に大事な人を失ってしまったのだ、という思いが強く胸に迫ります。
そういったわけで、ひょんなことから泉水さんの詩を別な角度で味わってみて新たな観点を発見しましたので、愚考ながらお眼にかけることにしました。繰り返しますが、あくまで個人の勝手な感想ですので他意はありません。
ZARDの歌詞を、これからは一遍の詩としても味わってみようと考えたことでした。
←長駄文にお付き合いくださりありがとうございます。