ふぇみにすとの雑感

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アメリカ大学院のデトロイト化?

2009-05-02 09:05:00 | 大学関係
前回エントリで話題となっていた渡辺千賀さんの「海外で勉強して働こう」というブログエントリについて言及した。その流れから、同ブログで「国や組織はどういう時に良くなるか」というエントリが新しくアップされていたので読んでみた。

そして、細かいことではあるが、このエントリ内で渡辺さんがNY Timesの Op-Edに掲載されたコロンビア大学教授による文章に言及していたのが気になったのでこれについてちょっと書いてみる。渡辺さんが言及していたこともあるが、このOp-Ed、実は私の職場(=アメリカの大学)でも話題になっていたという背景もあったりする。

渡辺さんは、この記事について、「アメリカの大学院でも、人文系では、「大学院は学問のデトロイト」と自ら語る教授もいるくらいなので気をつけてくださいませね。」と書いているが、「学問のデトロイト」ではなく、正確には「高等教育(higher education)のデトロイト」。そして、確かにこの文章を書いた教授は、コロンビアの宗教学部の学部長ではあるが、この人はとくに「人文系」に限った話をしているわけではない。もちろん、彼の背景から人文系のほうをより考慮しているとはいえるだろうが、今のアメリカの大学ーとくに大学院ーの危機的状況は、人文系に限定されるわけではない。

この記事で指摘されている、現在起きている、アメリカの大学における雇用凍結や解雇の流れは、人文系に限ったことではない。州立の場合は州からの予算が、私立の場合は(州立もところによっては)企業などからの膨大な寄付が不況によって減って、たいていの大学はこの影響に苦しんでいる。そして、雇用凍結を導入している大学は、大学規模で導入しているケースがかなり多いはずだ。要するに、ここ数年間は誰が引退しようが辞めようが、新たなテニュアトラック、およびテニュアをもつ教員を雇わないということである。そして、同時に非常勤カットも行われているのだ。これは、理系も文系も関係ないと思う。かえって、理系のほうが新たな教員を雇うときに、ラボを設立したりという必要が生じたりしてお金がかかるわけで、そこを凍結しないと大学経営的にはそう意味がない、ということにもなりそうだ。

この雇用凍結、解雇の流れの帰結はどうなるか。もちろん、クラスサイズの増大につながる。クラスサイズが大きくなれば、行き届いた指導などは不可能になる。マスプロ教育になり、教育の質の低下につながるだろう。

そして、このニューヨークタイムズの記事の主な主張は、アメリカの大学院システム批判だ。大学院で学ぶことが、どんどん専門化、細分化され、狭い専門の中にいる人たちしか読まないような論文を生産するための教育がなされ、教員たちは自分たちのまるでクローンのような学生を作ろうとしているようなものになっている。アメリカの大学教育というのは、安い給料で働かされる大学院生講師(ティーチングアシスタント)がいないと機能しない現状であり、その安い労働力確保のためにも、大学は大学院生を増やしたがる。テニュアシステムも硬直化を招いている面がある、、などなど。そういった現状を指摘して、どうやったらこの状況が変革できるかの提案をしているという文章である。この人の提案にすべて同意するわけではないけれど、「アメリカの高等教育ーとくに大学院教育が危機的状況に陥っている」という指摘は、たしかにもっともな面があると思う。

どの大学でも、大学院プログラムをつくることで、大学がお金を稼ぎ、安い労働力も得て、生き残りをはかろうとしているという面がすごくあるのだ。そして、大学院が乱立し、学位をもった卒業生も増え、でも仕事はない。しかも雇用凍結、という状態になっている。日本の大学院乱立をめぐる状況と、そう大きく変わらない現状がある。

もちろん、卒業して仕事がない可能性は一般的には理系より文系のほうが高いので、文系のほうがより厳しい状況ではあるのだが、それでも理系の博士号をとって、フルタイムの仕事がすぐにあるわけではなく、ャXドクをずーっとやらざるをえない人たちだってたくさんいるわけだし、この不況の影響は理系にだっていっていると思う。企業からの寄付や助成金が大きかった分野ならなおさらだろう。企業への就職についても、この不況だから、そうバラ色な状況であるはずもない。

博士課程はそうだが、では修士は?ということになるかもしれないが、いわゆる有名大学で、博士号までとれるようなプログラムの場合、修士課程というのはまさに、授業料を学生からとることで、大学がお金をもうけるためのものになっている場合も多い。修士論文の指導、という点に関して言えば、もちろん教員次第でもあるので、きちんと指導してくれる人もいるとは思うけれど、修士ということでまともに見てくれない教員もたくさんいると思う。修論指導に関しては、もしかしたら日本のほうがしっかりしているのではないかと思うくらいだ。そして、修士だけの学生たちにファンディングをだしてくれるケースは少ないだろう。大学がもうけるためのプログラムなのだから、学生自身が授業料払ってくれるのが当然、という考え方のところはかなり多いのではないか。博士課程があるプログラムでの修士の学生の立場は本当に弱いものだ。(修士主体のプロフェッショナルスクール系ーたとえばローやビジネスーになるとまたちょっと状況は違ってくるだろうが。)

アメリカの大学院教育というもの、そんなに夢のような世界ではないし、世界的にとくに抜きん出て優れているとも言いきれない面のではないか。実はかなりどんづまりになっていて、高等教育のお荷物になってしまっているのではないか、、という危機感は、かなりの教員に共有されているのではないか、と少なくとも私の経験では感じるものがある。しかしながら、なぜか世間一般でも、ブログ界隈でも、アメリカ大学および大学院教育が過度に理想化されがちなのが気になってしまうのだった。


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