もう2ヶ月以上前のことになってしまったが、2月に、国立民族学博物館の広瀬浩二郎さんがボーズマンを訪れた。広瀬さんは5年ほど前にも一度、ボーズマンにいらしたことがあり、何と2度目のご訪問である。
そのときのことを、広瀬さんが民博のサイトに書いていらっしゃった。
ミドルライフブルース<Vカゴの響き(15) 点字の嬉々と危機
上記記事で広瀬さんが触れている、障害者サービスのオフィスには私も同行したので、担当者の点字に関する発言はよく覚えている。視覚障害がある最近の学生たちは点字を使わず、学内情報はサイト情報を音声できくし、リーディングも音声で対応している、と。このオフィスについての点字パンフとかはないのですか?と広瀬さんがきくと、ウェブサイトで音声でわかるようにしてあるし...とのこと。業者に頼むと数千ドルとかかかって高いからつくっていないし(でも広瀬さんによれば、点字プリンターを一つ買えば簡単に解決する問題とのこと)、点字使う学生がほとんどいないからねえ、と。にもかかわらず、建物には点字の案内をつけるように大学はこだわっているのだ、という矛盾した答えでもあった。
記事の中で広瀬さんも書かれているように、もしかしたらなくなっていくのかもしれない点字の運命とともに、視覚障害がある人で、実は英語を母語としないとか、聴覚障害も抱えているなどして、聴き取りが難しいケースがある、ということは念頭から抜けているのではないか?と考えてしまった。そしてこうした状況のために、視覚障害をもつ学生が私の大学に留学しようとも思えない可能性もあるだろう。アメリカ人の学生にとっても、この大学に来たいとは思えない状況になってしまっているのでは、などといろいろ考えさせられた。
とはいえ、私の大学の障害者サービスのオフィスはユニークでもある。退役軍人オフィスと、障害者サービスのオフィスが一緒になっており、現実的に様々な障害を抱える退役軍人の学生も多い状況で、横断的なサービスが可能となっている。でも同時に、担当者によれば、実際は同じオフィスでも、障害者サービス用、退役軍人サービス用、と違う部屋を使っているのだそうだ。「一緒にされたくない、障害者あつかいされたくない」という退役軍人学生もいるからだ、ということだった。
この「一緒にされたくない」というのは、退役軍人学生側からの、障害者差別の視点の表れでもある。だが同時に、退役軍人学生側も、様々な差別を受けたり、スティグマを付与されたりしている。退役軍人ということで、何らかの障害をもっていると勝手に推測されるといったことも多いという。こういう経験を毎日のように積み重ねている学生たちが、「自分たちは別のオフィスが必要なのだ」と考えてしまうのもわからないではない。だが、現実には全員ではなくとも、何らかの障害を抱える退役軍人学生も多くいる。全く別のサービスを供給しているようにふるまいながら、実際には多くの場合、横断的なサービスを提供せねばならないというこのオフィスの難しさも垣間みた気がした。
ボーズマンご滞在中、広瀬さんには、パブリックトークに、私の2つの授業、別の日本文学の教員の授業とフル回転でトークをしていただいた。パブリックトークのプレスリリースも出してもらい、チラシサイズのカラーャXタ―も50枚ほど刷り、地元紙の記者にも連絡をとってイベント宣伝コーナーに情報を書いてもらうなど、短い準備期間だったができる限り宣伝も頑張った。とはいえ、私の授業のスケジュール上、このトークは夕方の5時という、私の大学的にはちょっと遅めの人が集まりづらい時間に組んだので、いったい何人くるか不安だった。部屋は50人くらいのところを押さえておいた。
で、蓋をあけたらびっくり!あっという間に部屋は満員になり、立ち見や床に座っている人もいるし、ドアの外で入れない人が待っているという状態。もっと大きい部屋を押さえるべきだった、、と後悔しまくったが時既に遅し、人があふれている状態の中で、広瀬さんのトークということになった。
「誰もがアクセスできる博物館」というテーマで、とくに広瀬さんが関わった「触る」展示の必要性についてのトーク。学生、教員に加え、地域の博物館のスタッフの人たちも数人来てくれたのは嬉しかった。
おそらく、この日、広瀬さんのお話を聞きにきた人たちの大多数は、日本への興味はとくにない人たちだったと思う。むしろ、「誰もがアクセスできる博物館」というテーマできれくれた人たちと、あとは人類学の授業のエクストラクレジットのためにきた学生たちもいたが、大部分が日本研究以外の人たちだった。広瀬さんが今までトークにいかれていたアメリカの大学は、トップレベルのリサーチ大学で日本研究が強い大学が多く、オーディエンスもかなりの人たちが日本語もわかる環境だったらしい。でも、モンタナではそうはいかない。そうした中でのトーク、臨機応変に内容も説明の仕方なども工夫する必要があるなど、いろいろ広瀬さんには大変だったかと思う。でも結果、大成功に終わった。
しかし、こんなに人がくるのだったら、誰か同僚に、会場設営やイントロダクションをするなどの助けを頼めばよかった、と、後悔したが後の祭り。通訳もつとめたため、それでかなり頭がいっぱい状態になり、イントロダクションの際にスャ塔Tーを紹介するのを忘れるという失敗。イベント関係の裏方はわりと慣れているし、小規模のイベントだから1人ですべてできるかと思っていたが、やっぱりこういうときは何でも1人でやろうとしちゃダメだ、と反省したのだった。
そのときのことを、広瀬さんが民博のサイトに書いていらっしゃった。
ミドルライフブルース<Vカゴの響き(15) 点字の嬉々と危機
上記記事で広瀬さんが触れている、障害者サービスのオフィスには私も同行したので、担当者の点字に関する発言はよく覚えている。視覚障害がある最近の学生たちは点字を使わず、学内情報はサイト情報を音声できくし、リーディングも音声で対応している、と。このオフィスについての点字パンフとかはないのですか?と広瀬さんがきくと、ウェブサイトで音声でわかるようにしてあるし...とのこと。業者に頼むと数千ドルとかかかって高いからつくっていないし(でも広瀬さんによれば、点字プリンターを一つ買えば簡単に解決する問題とのこと)、点字使う学生がほとんどいないからねえ、と。にもかかわらず、建物には点字の案内をつけるように大学はこだわっているのだ、という矛盾した答えでもあった。
記事の中で広瀬さんも書かれているように、もしかしたらなくなっていくのかもしれない点字の運命とともに、視覚障害がある人で、実は英語を母語としないとか、聴覚障害も抱えているなどして、聴き取りが難しいケースがある、ということは念頭から抜けているのではないか?と考えてしまった。そしてこうした状況のために、視覚障害をもつ学生が私の大学に留学しようとも思えない可能性もあるだろう。アメリカ人の学生にとっても、この大学に来たいとは思えない状況になってしまっているのでは、などといろいろ考えさせられた。
とはいえ、私の大学の障害者サービスのオフィスはユニークでもある。退役軍人オフィスと、障害者サービスのオフィスが一緒になっており、現実的に様々な障害を抱える退役軍人の学生も多い状況で、横断的なサービスが可能となっている。でも同時に、担当者によれば、実際は同じオフィスでも、障害者サービス用、退役軍人サービス用、と違う部屋を使っているのだそうだ。「一緒にされたくない、障害者あつかいされたくない」という退役軍人学生もいるからだ、ということだった。
この「一緒にされたくない」というのは、退役軍人学生側からの、障害者差別の視点の表れでもある。だが同時に、退役軍人学生側も、様々な差別を受けたり、スティグマを付与されたりしている。退役軍人ということで、何らかの障害をもっていると勝手に推測されるといったことも多いという。こういう経験を毎日のように積み重ねている学生たちが、「自分たちは別のオフィスが必要なのだ」と考えてしまうのもわからないではない。だが、現実には全員ではなくとも、何らかの障害を抱える退役軍人学生も多くいる。全く別のサービスを供給しているようにふるまいながら、実際には多くの場合、横断的なサービスを提供せねばならないというこのオフィスの難しさも垣間みた気がした。
ボーズマンご滞在中、広瀬さんには、パブリックトークに、私の2つの授業、別の日本文学の教員の授業とフル回転でトークをしていただいた。パブリックトークのプレスリリースも出してもらい、チラシサイズのカラーャXタ―も50枚ほど刷り、地元紙の記者にも連絡をとってイベント宣伝コーナーに情報を書いてもらうなど、短い準備期間だったができる限り宣伝も頑張った。とはいえ、私の授業のスケジュール上、このトークは夕方の5時という、私の大学的にはちょっと遅めの人が集まりづらい時間に組んだので、いったい何人くるか不安だった。部屋は50人くらいのところを押さえておいた。
で、蓋をあけたらびっくり!あっという間に部屋は満員になり、立ち見や床に座っている人もいるし、ドアの外で入れない人が待っているという状態。もっと大きい部屋を押さえるべきだった、、と後悔しまくったが時既に遅し、人があふれている状態の中で、広瀬さんのトークということになった。
「誰もがアクセスできる博物館」というテーマで、とくに広瀬さんが関わった「触る」展示の必要性についてのトーク。学生、教員に加え、地域の博物館のスタッフの人たちも数人来てくれたのは嬉しかった。
おそらく、この日、広瀬さんのお話を聞きにきた人たちの大多数は、日本への興味はとくにない人たちだったと思う。むしろ、「誰もがアクセスできる博物館」というテーマできれくれた人たちと、あとは人類学の授業のエクストラクレジットのためにきた学生たちもいたが、大部分が日本研究以外の人たちだった。広瀬さんが今までトークにいかれていたアメリカの大学は、トップレベルのリサーチ大学で日本研究が強い大学が多く、オーディエンスもかなりの人たちが日本語もわかる環境だったらしい。でも、モンタナではそうはいかない。そうした中でのトーク、臨機応変に内容も説明の仕方なども工夫する必要があるなど、いろいろ広瀬さんには大変だったかと思う。でも結果、大成功に終わった。
しかし、こんなに人がくるのだったら、誰か同僚に、会場設営やイントロダクションをするなどの助けを頼めばよかった、と、後悔したが後の祭り。通訳もつとめたため、それでかなり頭がいっぱい状態になり、イントロダクションの際にスャ塔Tーを紹介するのを忘れるという失敗。イベント関係の裏方はわりと慣れているし、小規模のイベントだから1人ですべてできるかと思っていたが、やっぱりこういうときは何でも1人でやろうとしちゃダメだ、と反省したのだった。