後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

地方の歴史を知ると心豊かになる(4)東山道武蔵路と恋ヶ窪ものがたり

2015年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム
私は何故か古い時代の道路を探して、歩くのが好きです。奈良時代、平安時代、そして江戸時代までと時代が大きく変わっても、同じ道を旅人が歩いてきたような道に憧れています。
そんな古道が隣町の国分寺市にあったのです。発掘、研究され確かに奈良時代の道路だったと判っている場所です。その東山道武蔵路の一部は国指定の史跡になっています。
JR西国分寺駅の東北に「姿見の池」があり、その周辺には鎌倉時代初期の創建と言われている東福寺や熊野神社があります。このお寺と神社に挟まれている静かな住宅街の道路が710年に武蔵国の国府が置かれた時に、大和朝廷によって官道と指定された東山道武蔵路です。
正確に言えば現在の舗装道路の下に東山道武蔵路が埋まっています。道筋も現在の舗装道路より少しずれているようです。
私は時々この「姿見の池」の岸辺を散歩し、東福寺と熊野神社に参詣します。このすぐ近くに「恋ヶ窪」という宿場町があり遊女が沢山いたそうです。「姿見の池」とは遊女たちが鏡の代わりに池に姿を映して見たのでその名前がついたのです。
近くの東福寺には遊女たちの無縁墓もあります。
源平合戦の折り、東国の武士たちはこの東山道武蔵路を南に駆け抜け、鎌倉で源頼朝の軍勢に加わったのです。その中の武将、畠山重忠と恋ヶ窪の遊女、風妻太夫との悲恋物語も「姿見の池」にある看板に詳しく書いてあります。
そして新田義貞が上野や下野の武士を集めて、この東山道武蔵路を下って鎌倉幕府を府中市の分倍河原でやぶり、鎌倉に攻め込んだのです。1333年、鎌倉幕府は新田義貞軍によって消滅したのです。
東山道武蔵路を歩いた通った人は武将たちだけではありません。この道を挟んで東西に国分寺の「僧寺」と「尼寺」があったのです。757~765年頃、壮大なお寺が完成して以来、1333年の分倍河原の合戦の折り焼け落ちるまでの500年以上の間、国分寺にお参りする人々が賑やかに通った道だったのです。
この武蔵路は710年から771年までは官道でしたが、その後は東海道の相模国から分かれる支道が官道となり、格下げされます。しかしその後の時代になっても武蔵路は北関東と東海道をつなぐ非常に重要な道路でした。鎌倉時代は多くの「鎌倉街道」の一つとして整備されていたようです。
北関東の人々が京都や大阪に行くときは山道の中山道を嫌い武蔵路経由で東海道を行く人も多かったのです。
ですからこそ恋ヶ窪という宿場町は江戸時代の前までは大変栄えた町だったので。江戸幕府になってからは甲州街道と中山道と東海道などが次第に重要になり、その結果、恋ヶ窪は静かになりました。
「恋ヶ窪」という地名は有名ではありません。東京の人も知らない人が多いのです。
この地名を知っているのは現在の國分市の市民だけでしょう。国分寺市の市役所はこの恋ヶ窪町にあるからです。
市役所を繁華なJR国分寺駅周辺ではなく町はずれの「恋ヶ窪町」に置いた先人は本当に歴史が好きな人だったに違いありません。地元の歴史を大切にする心豊かな人だったのです。
私はそういう人を偉い人として尊敬しています。昨日、恋ヶ窪町で撮って来た写真を示します。そして最後に東山道武蔵路の位置を示す図面を掲載します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

上の写真は恋ヶ窪町にある熊野神社です。

上は熊野神社にある石碑で、1486年に通った旅人が恋ヶ窪が寂びれていると詠んだ歌が刻んであります。

上は鎌倉初期に創建されたといわれている東福寺です。

上は姿見の池の木道です。

上は東山道武蔵路の発掘、調査の結果を紹介している看板です。

この図面の出典は、http://aoi-pcc.sakura.ne.jp/uwado/index.html です。
===参考資料=============
東山道武蔵路:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E9%81%93%E6%AD%A6%E8%94%B5%E8%B7%AF

7世紀に律令制が確立されるとそれに伴って行政区画の整備も行われ、いわゆる「五畿七道」が設置された。この制度により畿内以外の国々はそれぞれ所定の「道」に属し、同時にそれらの国の国府を結ぶ同名の官道が建設されることになった。
この際、武蔵国は相模国に東接する海沿いの国ではあったが、近江国を起点に美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国(当時はまだ出羽国はなかった)と本州の内陸国が属する東山道に属することになった。このため、道としての東山道にもこれらの国々から大きく外れたところにある武蔵国の国府を結ぶ必要が生じた。
普通官道は地理的制約から特定の国の国府を通れない場合、支道を出して対処するのが定石であり(例:東海道の甲斐国・山陽道の美作国)[2]、武蔵国の場合も上野国府と下野国府との間で本道を曲げて、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国府に至るルートが設置された。以下省略。

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (東路野)
2024-01-26 20:02:43
東の拠点

さきたま(武蔵)
まくらが(下総・武蔵)
かまくら(相模)
江戸(武蔵)

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。