スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(長鼓峰古墳、新徳古墳)

2024-01-03 15:52:18 | 日記
1月3日(水)
 長鼓峰古墳・新徳古墳はともに朝鮮半島の南西端に所在する、6世頃築造の古墳である。かって任那日本府があったと言われる辺りである。ここには14基からなる古墳群があって、両者ともそれに含まれている。ちなみに長鼓とは朝鮮の楽器らしく、古墳が細長い形をしている所からつけられたらしいが、何の事はない前方後円墳の事である。韓国では非日からそうは言わないで長鼓と呼ぶらしい。ただ私が日本国内で見た前方後円墳は、前方部分が3段に盛土されていたが、韓国のものはそこに着目して撮った写真ではない為か、よく分からず、2段くらいに作られているように思える。しかし新徳古墳の全景を映した上空写真がネットに出ていて、明らかに前方後円墳の形状である。
 韓国考古学会は非日を貫いているから、何で韓国に日本の前方後円墳があるのかの解明は、蓋をされているようだ。以上は端折っているがハンギョレ新聞に出ていた記事である(記事全文を載せている日本語のネットがある)。
 まあ韓国は勿論、日本の考古学者も韓国に遠慮して解明などようしないだろうから、何で韓国に日本の前方後円墳があるかの学問的説明は、当分ないであろう。しかし我々の推論は飛ぶ。
 魏志倭人伝に「その北岸狗邪韓国」との文章がある。「その北岸」とは具体的に何を指すのか長らく疑問だった。「その」は倭国であろうが、「狗邪韓国」が倭国の北岸(倭国に含まれる)だと言うのか、それとも「狗邪韓国」は倭国の北の対岸にあると(つまり倭国ではないと)言っているのか、分からなかったのだ。大方の意見は後者で「狗邪韓国」は倭国ではないと言うものである。しかし対岸にある別の国を「その北岸」と呼ぶであろうか。今の大韓民国を日本の北岸とは、普通言わないであろう。私は漢文に詳しくないので当時「北岸」がどのような意味で使われていたか、他の資料の用例を探して推量する能力が無いので、疑問のまま今日まで来た。しかし韓国に日本の前方後円墳があるのならば、話は違ってくる。
 魏志倭人伝は3世紀後半の書物で、述べられている時代は3世紀前半のものである。長鼓型の古墳が築造されたのは6世紀らしい。あんなに大きな古墳が作れるのだから、その300年くらい前から倭人がその地を支配していたと考えても、おかしくはない。ならば魏志倭人伝が「狗邪韓国」を倭の一部だと考えていたとしても、辻褄は合う。
 もう一つある。倭人伝に「倭の地を参門すると~5千里余り」との記述がある。帯方郡から邪馬台国迄1万2千里で、「狗邪韓国」まで7千里かかると、書いてある。1万2千里引く7千里は、5千里である。邪馬台国より遠い国々は倭種としか書かれていないから、倭人伝が捉えていた倭国とは、邪馬台国迄だと考えて良いと思う。そうすると「倭の地を参門する」とは「邪馬台国に纏められている倭の地は」と読むことが出来て、それは「狗邪韓国」から邪馬台国迄の5千里となり、ぴったり当てはまるのである。