スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(邪馬台国は何処か?)

2024-01-09 17:43:05 | 日記
1月9日(火)
 朝鮮の古墳についての記事を読んだので、久し振りに魏志倭人伝を読み返してみた。邪馬台国は何処なのかもう一度自分なりに考えてみようと思ったのだ。もう一度というのは、昔、凝った事があるからだ。
 九州節・近畿説など色々あるが、改めて邪馬台国論争を眺めてみると、魏志倭人伝の記述を何等か変えないと、論理立った説明は出来ないのだなあと思い入った。九州説なら「水行二十日」との記述に「郡から~」と付け加えるとか、近畿説なら「南」を「東」に変えるとか原文をなんらか変更しないと、まともな行程が出来上がらないのだ。そこに考古学的な発見を重ねるとかして、或いは陳寿の思惑を勝手に推量したりして、邪馬台国はここらしいと各々言っている。こうなると素人には、まあ論争に加わる事は、無理である。
 しかし魏志倭人伝にはピンポイントで特定は出来ないが、邪馬台国の所在を大よそこの範囲内だろうと考えさせる、明確な記述がある。私としてはこの記述に頼るしかない。倭人伝は帯方郡から邪馬台国迄の距離を「一万二千里」と言い、且つ邪馬台国の玄関口である伊都国までに至る行程に、「一万五百里」を要すると書いているのだ。すると残りの「千五百里」で邪馬台国に到達しなければならない。倭人伝は対馬海峡の幅を「三千里」としているから、「千五百里」はその半分で、伊都国を九州北部の沿岸の何処かと想定すると、「千五百里」の距離なのだから、邪馬台国の所在する範囲は北部九州の範囲内に限定せざるを得ない。だから近畿説など論外である。しかし倭人伝の記述が曖昧なために、ピンポイントでは特定できない。こんな所が素人の結論である。
 この「一万二千里」を陳寿の陰謀(間違っている事を知っていて書いた)だとする説もあるが、そうなると素人の及ぶところではなくなる。
 今回魏志倭人伝に触れて、別の事を思った。それは所謂任那日本府などに代表される、古代朝鮮に日本が進出していた事態についてである。中学や高校の教科書で任那日本府について習った覚えはあるが、その後に読んだ左翼学者の本の影響なのか、私の頭の中では実在性の疑わしい話として記憶されているのだ。任邦日本府は3世紀ごろ成立して562年に滅亡(日本書紀による)したとあるが、広開土王碑の414年条に存在が記載(私は碑文を読んでいないが)されているそうだ。また中国の史書にも断片的に登場しているらしい。
 任邦日本府滅亡後の約百年後の663年に白村江の戦いが起こっている。これは日本対唐・新羅の連合軍の戦いだから、唐の歴史書には載っている事と思う。白村江の戦いが事実なら日本は朝鮮半島に相当強い基盤を築いていたことになり、百年前に任邦日本府が存在していたとしても不思議ではない。
 更には長鼓峰古墳とか新徳古墳の例に見るように、6世紀に巨大な前方後円墳が作られていたとすれば、神功皇后の三韓征伐も本当の話かもしれないと思えてくる。少なくとも古代朝鮮に倭の勢力が相当根を張っていたことは、間違いないであろう。
 韓国古代史学会は前方後円墳の形跡を消すために、古墳を立ち割って三つの円墳に見せるという改竄をした(松鶴洞古墳)、およそ学問とは程遠い組織である。これは史学会だけでなく韓国人全体の思考傾向かも知れない。戦後の日本史学会も、そういう韓国に忖度する学者が、幅を利かせてきたように思う(はっきり言えば戦後の韓国上げに迎合した売国学者なのだ)。だから古代朝鮮における日本の足跡は、新たに見直さなければならないと考えた。