◎末松太平に関連する資料が「ゆうパック」で届いた。差出人=末松太平の長女(私の妹)。
・・・私の要請「親父の遺品の中に『政経新論』があれば・・・」に応えたものだが 結果は「一冊だけ・・・」だった。
◎「政経新論」1962(昭和37)年10月号。創刊から数えれば「第二巻第10号」にあたる。
目次(右写真)参照。この号には「二・二六事件異聞」が掲載されていない。その理由は何故か?。
1962年2月号「蹶起の前後(その2)」の末尾には「一応ここで筆を止める」と記されていた。
そして この年の8月に「二・二六事件異聞」は高橋正衛氏の目に停まり 翌年2月に「みすず書房版」に結実する展開となる。筆を止めた「連載」が掲載される訳がない。
◎しかし・・・「筆を止める」と記してから数ヶ月後。連載「二・二六事件異聞」は復活していた。
●1962年6月号「映画『脱出』について」。8月号「刑場の写真」。
●1963年8月号「夏草の蒸す頃」。9月号「続・夏草の蒸す頃」。
この4編は《末松太平著「軍隊と戦後の中で」1980年2月・大和書房刊》に《拾遺》されている。
◎話を「1962年10月号」に引き戻す。目次の「達磨」は末松太平が描いている。
多分「巻頭言/人づくり」と「復権維新論/同じ穴の護憲論と改憲論」も 末松太平が(無記名で)書いたと思う。
目次には(編集者のミスで?)筆者名が記してないが 田尻隼人氏の随筆「酒の見本『会津桜』の行方/渋川善助の憶い出」が心に残る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★《抄録/田尻隼人「酒の見本『会津桜』の行方/渋川善助の思い出」》
「政経新論誌上、末松兄によって描き出される二・二六事件の秘められた数々の物語のうち、たまたま渋川善助君の登場するごとに、あの紅顔端正な在りし日の故人の面影が、髣髴として瞼に烙きつけられるように浮かんでくる。/その交わりは、さほど深かったとはいわれない。渋川君が大森一声(曹玄)君らの直心道場の一室に、細君と二人睦まじく暮らしておった時代の短い期間であった」
「毎年十二月十四日には、彼は直心道場の青年十人ばかりを引き連れて、小石川水道端町の道場から、朴歯の下駄音高らかに肩いからせて、意気軒昂、徒歩で高輪泉岳寺の義士の墓に参拝する。帰路また徒歩で、夜すでに遅くに西八丁堀にある私の家内の店『安兵衛』に立ち寄り、おでんで酒を酌み交わしながら大いに気勢を上げる。私は彼らを近くの寿司屋に連れて行き、一個三餞の安寿司を振舞ったものだが、実に愉快な情景気分を味わい得て充分であった。」
「昭和十年の十二月、例のとおり義士祭参拝の帰途、渋川君は一行と『安兵衛』に寄って痛飲歓談、来春の再会を約して元気旺然として帰って行かれた。それが彼との最後の酒盛りであり、最後の別れとなったのである。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎「政経新論」1962年10月号の「主役」は《後藤四郎「頭目・王蔭武(前編》」》。堂々21頁の力作である。
・・・冒頭に「政経新論」編集者が掲載意図を示している。編集者(末松太平)の描いたカットも載っている。
「道義国家を理想とした満州建国の蔭には、日本から行った多くの青年の献身があった。しかし、その献身の甲斐なく満州建国は歪曲され遂にその国は消滅した。が、これら青年の献身は満州国の消滅とともに抹殺されていいものではない。これはそういう意味における一青年士官の記録の断片である。」
◎後藤四郎氏は「二・二六事件異聞」にも度々登場。「完本・私の昭和史」の索引には「17」の頁が記されていた。
「頭目・王蔭武(後編)」が掲載された筈の「政経新論・1962年11月号」は 手元にない。
昔々 千葉市登戸五丁目の末松邸を全壊して売却撤退した際に 大量の廃棄物に紛れて消失したのだと思う。(末松)
・・・私の要請「親父の遺品の中に『政経新論』があれば・・・」に応えたものだが 結果は「一冊だけ・・・」だった。
◎「政経新論」1962(昭和37)年10月号。創刊から数えれば「第二巻第10号」にあたる。
目次(右写真)参照。この号には「二・二六事件異聞」が掲載されていない。その理由は何故か?。
1962年2月号「蹶起の前後(その2)」の末尾には「一応ここで筆を止める」と記されていた。
そして この年の8月に「二・二六事件異聞」は高橋正衛氏の目に停まり 翌年2月に「みすず書房版」に結実する展開となる。筆を止めた「連載」が掲載される訳がない。
◎しかし・・・「筆を止める」と記してから数ヶ月後。連載「二・二六事件異聞」は復活していた。
●1962年6月号「映画『脱出』について」。8月号「刑場の写真」。
●1963年8月号「夏草の蒸す頃」。9月号「続・夏草の蒸す頃」。
この4編は《末松太平著「軍隊と戦後の中で」1980年2月・大和書房刊》に《拾遺》されている。
◎話を「1962年10月号」に引き戻す。目次の「達磨」は末松太平が描いている。
多分「巻頭言/人づくり」と「復権維新論/同じ穴の護憲論と改憲論」も 末松太平が(無記名で)書いたと思う。
目次には(編集者のミスで?)筆者名が記してないが 田尻隼人氏の随筆「酒の見本『会津桜』の行方/渋川善助の憶い出」が心に残る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★《抄録/田尻隼人「酒の見本『会津桜』の行方/渋川善助の思い出」》
「政経新論誌上、末松兄によって描き出される二・二六事件の秘められた数々の物語のうち、たまたま渋川善助君の登場するごとに、あの紅顔端正な在りし日の故人の面影が、髣髴として瞼に烙きつけられるように浮かんでくる。/その交わりは、さほど深かったとはいわれない。渋川君が大森一声(曹玄)君らの直心道場の一室に、細君と二人睦まじく暮らしておった時代の短い期間であった」
「毎年十二月十四日には、彼は直心道場の青年十人ばかりを引き連れて、小石川水道端町の道場から、朴歯の下駄音高らかに肩いからせて、意気軒昂、徒歩で高輪泉岳寺の義士の墓に参拝する。帰路また徒歩で、夜すでに遅くに西八丁堀にある私の家内の店『安兵衛』に立ち寄り、おでんで酒を酌み交わしながら大いに気勢を上げる。私は彼らを近くの寿司屋に連れて行き、一個三餞の安寿司を振舞ったものだが、実に愉快な情景気分を味わい得て充分であった。」
「昭和十年の十二月、例のとおり義士祭参拝の帰途、渋川君は一行と『安兵衛』に寄って痛飲歓談、来春の再会を約して元気旺然として帰って行かれた。それが彼との最後の酒盛りであり、最後の別れとなったのである。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎「政経新論」1962年10月号の「主役」は《後藤四郎「頭目・王蔭武(前編》」》。堂々21頁の力作である。
・・・冒頭に「政経新論」編集者が掲載意図を示している。編集者(末松太平)の描いたカットも載っている。
「道義国家を理想とした満州建国の蔭には、日本から行った多くの青年の献身があった。しかし、その献身の甲斐なく満州建国は歪曲され遂にその国は消滅した。が、これら青年の献身は満州国の消滅とともに抹殺されていいものではない。これはそういう意味における一青年士官の記録の断片である。」
◎後藤四郎氏は「二・二六事件異聞」にも度々登場。「完本・私の昭和史」の索引には「17」の頁が記されていた。
「頭目・王蔭武(後編)」が掲載された筈の「政経新論・1962年11月号」は 手元にない。
昔々 千葉市登戸五丁目の末松邸を全壊して売却撤退した際に 大量の廃棄物に紛れて消失したのだと思う。(末松)