◎「高齢化 細るNPO法人/阪神・淡路大震災きょう28年」。1月17日 朝日新聞朝刊第1面の見出し。
※「お命日を目前の『完本』の出版、きっとお父様もお喜びのことでしょう」。1月2日 江翠サンからいただいたコメント。
●1995(平成3)年1月17日 午前5時46分 阪神・淡路大震災発生。亡くなった方 6434人。
●1993(平成5)年1月17日 午前8時33分 末松太平逝去。朝日新聞の見出を転用すれば「きょう30年」ということになる。
◎1962(昭和37)年2月20日発行 月刊「政経新論」二月号/二・二六事件特集号。
※この号には《連載 二・二六事件異聞「蹶起の前後」その二》が掲載されていて 文末には「二・二六事件異聞・終」と記されている。
曰く「私が政経新論創刊以来、二年余にわたって書きつづった『二・二六事件異聞』は、一応ここで筆をとめる」とある。
※「処刑が終わるのを合図に練兵場の噪音は余韻も残さず静まった。その静まりのなかに、塀のそばの民家からの、朝のラジオ体操の放送がながれてきた。/かの子等はあをぐもの涯にゆきにけり涯なるくにを日ねもすおもふ/西田税の歌である。/青雲の涯にいったのかどうかはわからない。ただ『天皇陛下万才』の叫びを私の心に刻みつけて、再び会うことも話し合うこともできない、それだけにどこか遙かな遠い涯にいったことだけは事実である」。これが「連載 二・二六事件異聞」最終回のラスト7行である。まさに「末松太平=西田派青年 校」に相応しい幕切れであると思う。
※しかし「私の昭和史/みすず書房版」の最終章は「政経新論連載」の最終回ではない。(編集者の意図で)異なる章に変えられている。
三島由紀夫氏の書評「殊に全編を読み来たって、エピロオグの『大岸頼好』の章に読みいたったときの、パセティックで、しかも残酷な印象は比類がない」。もしも「私の昭和史/みすず書房版」が(編集者が手を入れずに)「政経新論」掲載順のままだったら・・・。多分 三島氏の感銘(全編を読み来たって、エピロオグの・・・)は得られなかったに違いない。
◎1963(昭和38)年2月20日発行「私の昭和史/みすず書房版」の「目次」を(未読の方のために)記録に留めておく。
※まえがき「『私の昭和史』は二年ばかりにわたって『政経新論』誌上に たどたどしく私の体験を書き綴ったものの大部分である。大部分といったのは、一冊の本にまとめる便宜上、一部を削除したものである」。
二年余にわたる連載を取捨選択して「Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」の三部構成に仕立てたのは みすず書房編集部の高橋正衛氏の功績である。
※「Ⅱ」の後半「蹶起の前後=雑誌連載の最終章」に続くのは「青雲の涯」で 村中孝次氏のことが記されている。
そして「Ⅲ・大岸頼好の死」が(みすず書房版の)最終章となる。
※1962年2月に連載を終了した「二・二六事件異聞」は 1963年2月に《末松太平著「私の昭和史」みすず書房刊》として登場する。その経緯については 次回に報告したいと思う。
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※写真右。《月刊「政経新論」1962年2月号/二・二六事件特集号》の掲載記事。
《昭和10年7月11日「粛軍に関する意見書」陸軍歩兵太尉/村中孝次 陸軍一等主計/磯部浅一》。
村中氏と磯部氏が軍を追われることになった「問題の文書」であるが 堂々34頁(!)というボリュームに圧倒される。
※参考までに「二・二六事件特集号」掲載の他の記事も紹介しておく。
●「蹶起趣意書」昭和11年2月26日 陸軍歩兵大尉 野中四郎 他同志一同。
●「二・二六事件の謎」河野司。
●「判士長の手記」吉田中将(北一輝、西田税両氏の判士長=裁判長)の上申の一部と日記の一部を抜粋。
●「編集後記」今号の編集意図と解説。(末松)
※「お命日を目前の『完本』の出版、きっとお父様もお喜びのことでしょう」。1月2日 江翠サンからいただいたコメント。
●1995(平成3)年1月17日 午前5時46分 阪神・淡路大震災発生。亡くなった方 6434人。
●1993(平成5)年1月17日 午前8時33分 末松太平逝去。朝日新聞の見出を転用すれば「きょう30年」ということになる。
◎1962(昭和37)年2月20日発行 月刊「政経新論」二月号/二・二六事件特集号。
※この号には《連載 二・二六事件異聞「蹶起の前後」その二》が掲載されていて 文末には「二・二六事件異聞・終」と記されている。
曰く「私が政経新論創刊以来、二年余にわたって書きつづった『二・二六事件異聞』は、一応ここで筆をとめる」とある。
※「処刑が終わるのを合図に練兵場の噪音は余韻も残さず静まった。その静まりのなかに、塀のそばの民家からの、朝のラジオ体操の放送がながれてきた。/かの子等はあをぐもの涯にゆきにけり涯なるくにを日ねもすおもふ/西田税の歌である。/青雲の涯にいったのかどうかはわからない。ただ『天皇陛下万才』の叫びを私の心に刻みつけて、再び会うことも話し合うこともできない、それだけにどこか遙かな遠い涯にいったことだけは事実である」。これが「連載 二・二六事件異聞」最終回のラスト7行である。まさに「末松太平=西田派青年 校」に相応しい幕切れであると思う。
※しかし「私の昭和史/みすず書房版」の最終章は「政経新論連載」の最終回ではない。(編集者の意図で)異なる章に変えられている。
三島由紀夫氏の書評「殊に全編を読み来たって、エピロオグの『大岸頼好』の章に読みいたったときの、パセティックで、しかも残酷な印象は比類がない」。もしも「私の昭和史/みすず書房版」が(編集者が手を入れずに)「政経新論」掲載順のままだったら・・・。多分 三島氏の感銘(全編を読み来たって、エピロオグの・・・)は得られなかったに違いない。
◎1963(昭和38)年2月20日発行「私の昭和史/みすず書房版」の「目次」を(未読の方のために)記録に留めておく。
※まえがき「『私の昭和史』は二年ばかりにわたって『政経新論』誌上に たどたどしく私の体験を書き綴ったものの大部分である。大部分といったのは、一冊の本にまとめる便宜上、一部を削除したものである」。
二年余にわたる連載を取捨選択して「Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」の三部構成に仕立てたのは みすず書房編集部の高橋正衛氏の功績である。
※「Ⅱ」の後半「蹶起の前後=雑誌連載の最終章」に続くのは「青雲の涯」で 村中孝次氏のことが記されている。
そして「Ⅲ・大岸頼好の死」が(みすず書房版の)最終章となる。
※1962年2月に連載を終了した「二・二六事件異聞」は 1963年2月に《末松太平著「私の昭和史」みすず書房刊》として登場する。その経緯については 次回に報告したいと思う。
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※写真右。《月刊「政経新論」1962年2月号/二・二六事件特集号》の掲載記事。
《昭和10年7月11日「粛軍に関する意見書」陸軍歩兵太尉/村中孝次 陸軍一等主計/磯部浅一》。
村中氏と磯部氏が軍を追われることになった「問題の文書」であるが 堂々34頁(!)というボリュームに圧倒される。
※参考までに「二・二六事件特集号」掲載の他の記事も紹介しておく。
●「蹶起趣意書」昭和11年2月26日 陸軍歩兵大尉 野中四郎 他同志一同。
●「二・二六事件の謎」河野司。
●「判士長の手記」吉田中将(北一輝、西田税両氏の判士長=裁判長)の上申の一部と日記の一部を抜粋。
●「編集後記」今号の編集意図と解説。(末松)