◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

19.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170314) 末松太平さま(その2)三島由紀夫「英霊の聲」から

2017年03月14日 | 今泉章利
19.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170315)
末松太平さまのこと(その2)三島由紀夫「英霊の聲」から



三島由紀夫さんの「英霊の聲」(昭和41年発行、河出書房新社)に「二・二六事件と私」という文章が収められています。
その中に、末松太平さまのことが書かれているので、その部分を抜き書き致します。三島由紀夫さんが末松さまのどのように見ていたかを知るうえでの参考になればとおもいます。

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P226
戦時中は日の目を見なかった二・二六事件関係の資料が、戦後次々と刊行され、私が「英霊の聲」を書き終わった直後に上梓された「木戸幸一日記」と「昭和憲兵史」(未発表の憲兵隊調書を収載)を以て、ほぼ資料は完全に出揃ったものと思われる。壮烈な自刃を遂げた河野寿大尉の令兄河野司氏の編纂にかかる「二・二六事件」と、末松太平氏の名著「私の昭和史」は、なかんずく私に深い感銘を与えた著書である。


P232
..かくて私は、「十日の菊」において、狙われて生きのびた人間の喜劇的悲惨を描き、「憂国」において、狙わずして自刃した人間の至福と美を描き、前者では生の無際限の生(なま)殺しの拷問を、後者では死に接した生の花火のような爆発を表現しようと試みた。さらに「英霊の聲」では、死後の世界を描いて、狙って殺された人間の苦患の悲劇をあらわそうと試みた。
二・二六事件という一つの塔は、このようにして、三つの側面から見られたのであるが、まだ一つ側面が残っている。それは狙って生きのびた人間のドラマである。しかし私はそれについてもはや書く気がない。なぜなら、その課題は末松太平氏の「私の昭和史」の、バルザックを思わせる見事な最終章「大岸頼好の死」によって、すでに果たされているからである。


P233
また、「憂国」を次のように改訂し、以後これを底本とする。
「近衛輺重兵大隊」を「近衛歩兵第一聯隊」と改め、「中尉は享年三十一歳」を「三十歳」と改め、中尉の帰宅の件で、「軍刀と革帯を袖に巻いて」を、「軍刀を抱いて」と改め、中尉の遺書の、「皇軍万歳 陸軍中尉武山信二」を。「皇軍万歳 陸軍歩兵中尉武山信二」と改めた。
 この改定は、当時の実情をよく知る加盟将校の一人(当時陸軍歩兵大尉)末松太平氏の助言に依ったものであるが、「輺重兵」の改訂については、私自身多少未練があった。

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なお、輺重(しちゅう)とは、いまでいう補給部隊、logisticsのことで、きわめて重要な役目であるのですが、当時は、誤解されていたようで、父などは、陸軍士官学校の将校生徒は、ほとんどが、「歩兵少尉」になることを熱望しており、なれなかったものの落胆は、みていられないぐらいとはなしていました。(この辺りは、澁川さんも同じような感じでありました。また、兵隊とともに勤務できない、事務屋になり下がった陸大卒業組、天保銭組は、本当に馬鹿にされていた様です。)
なお、輺重の重要性ですが、二・二六事件で、食料を27日夜届けたのは、第一師団経理部衣糧課長だった紺田少佐の独断で行われたことが昭和50年2月27日の新聞に載っていました。紺田少佐は、出動部隊の食料が一日分しかないので、300人が1週間食べられるだけの、米、麦、野菜、魚、肉などトラック一台分を届けるように命じたとのことです。後刻、紺田少佐は、取り調べを受けますが、兵たちが、空腹のあまり民家でも襲ったら大変であり、たとえ厳罰に課せられてもとの覚悟のもと、食料を送ったと説明し、処罰を受けることはありませんでした。
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