前回記事にした『琉球のユウナ』3巻。
そこに出てきた第一尚王統最後の王・尚徳王の次男(浦添王子)。
しかし、クーデターの関係で
尚徳王の系図、子どもたちとその後については
実はハッキリしていません。
長男(世子)がクーデターの際に殺害された
というのは共通しているのですが、
その弟たちについては、いくつかのパターンを散見するので
ちょっと掲載してみることにします。
尚徳の父、尚泰及関係の史跡が集中している
玉城村(現:南城市)の村史(2006年)より。
次男が鹿児島に逃亡、
となっているのが興味深い。
第一尚氏子孫の書いた
『系図は生きている』(當間荘平著/1990)より。
本文によると
古琉球三山由来記集373頁、
尚徳王の子孫系図記されているものとして紹介。
次男については、
一説には日本国へ逃げ去る云々
とありますね。
喜界島の女との間に生まれた子として3男が、
久高島の女(→★ ★)との間のに生まれた子として
萬金子の記載があるのが興味深い。
(これは他で見る"黄金子"と同一人物なのか…??)
何男なのか不明なのもリアル。
先の『系図が生きている』より前になりますが、
同じ作者の『月代の神々』(1985)より。
長男に「志義」、4男に「黄金子」との名前が。
本文によると、
この世系図は、雍氏松茂良姓系図に記録されているが、
尚巴志王統由来記には尚徳王の子は男3人しか伝わっていない
4男黄金子は史書にも記録はない。
おそらく別腹であったのではないか。
…だそうです。
『琉球王国の真実』(伊敷賢/2013)より。
この本は民間伝承の本で、
掲載されている系図にはぶっ飛んだ(と感じる)ものも多いので
(他魯毎の妃は攀安知の妹で、その子供が金丸、とか
攀安知の妃は他魯毎の妹で、その子が阿麻和利の母とか→★)
その点、私は一歩引いて見てはいるのですが。
喜界島の娘との間の子は、2人となっていますね。
(喜界島の尚徳王墓前の石碑には、3人の息子とあります)
『佐敷町の文化財Ⅳ 第一尚氏関連写真集』(佐敷町教育委員会/1996)より。
ただ見出しの第一尚氏世系図には(仮)の文字も。
最初に紹介した『玉城村史』とも合わせると
オフィシャル的には今のところ、
この形が1番無難、という所でしょうか?
これはドラマ版テンペストより。
黄金子に大明存留とあるのはドラマのフィクション設定。
そして、
時代考証を担当した上里さんのこの回↑のテンペスト解説記事によると、
朝鮮の『海東諸国紀』という史料に
尚徳の子供に、中和、於思、截渓という人物がいた
との記述があるとのこと。
おっ、これはユウナで出てきた名前ですね。
以上、見てきた中で
それぞれの息子たちの母(尚徳の妃、妻ら)の関係までは分からないけど
ユウナに乗ってる系図は
3男と4男はそれぞれ別の「妻」となっています。
元となった資料があると思いますが(ナンダロウ?)、
その「妻」が誰なのか…想像すると面白いですね。