目からウロコの薩摩侵攻史跡めぐりツアー記事。
薩摩軍の侵攻をたどる記事は前回でひとまず終了。
ここからは番外編。
薩摩侵攻の史跡周辺めぐりで+αのお勉強と解説もありましたので、
記録も兼ねて、記事にします。
崖の側面に空けられた複数の穴。
これが何なのか、お分かりでしょうか。
実は、
古琉球時代のお墓なのです。
沖縄のお墓といえば、
亀の甲羅を模した亀甲墓が有名ですね。
前回紹介した護佐丸のお墓は、
現存する最古の亀甲墓とパンフレットにありました。
(でも講師の上里さん曰く、もっと古いのがあるらしいです)
でも護佐丸の亀甲墓は後の時代に子孫達が立て直したもので、
護佐丸の時代、つまり古琉球の時代は
崖の下や側面の穴に葬る
「風葬」が一般的だったのだそうです。
(土葬もありはするそうですが)
この場所は今帰仁村運天港のすぐそば。
今でも風葬墓の面影がはっきりと残っている地域だそうです。
今ではコンクリートやブロックや板でふさがれていますが。
確かに、古琉球時代(1609年の薩摩侵攻以前)のお墓、
阿麻和利や大城賢勇、尚巴志、尚泰久や百十踏揚たちのお墓も
亀甲墓ではなく、大岩に穴をあけた形態ですねー。
(浦添ようどれなんかもそうか…)
この今帰仁村には、百按司墓という墓があります。
百の按司(=権力者、地方王)の墓、ということで
たくさんの遺骨が風葬されていた墓穴らしいです。
小説「百十踏揚」では、
この百按司墓の木棺に左三つ巴の家紋があることから、
百按司墓は尚徳王ゆかりの墓だとされており、
第一尚氏7代王、尚徳がクーデターの際、
北山(今帰仁)に逃げてここで暮らしたという(伝)説もある。
(「百十踏揚 640-」 与並岳生著/新星出版)
とありますが、
うーん…。
ちなみに、百按司墓と、その木棺に残されていた左三つ巴の家紋については、
「尚家家紋、左三つ巴を考える【2】」の記事のコメント欄で
上里さんが詳しいサイトを紹介してくださっているので
興味のある方はご一読を。
(はてさて、リンク先に飛んでくれる希少な方はいったいどれだけいるのか…)
っていうか、
このブログ、お墓の記事多いな…
ツアーの帰るのバスで、上里さんに色々質問してたら
「お墓詳しいですね」
って言われてしまったよ
いや…史跡巡りとなると、どうしてもお墓はつきもので…
おのずとこうなってしまうのです(苦笑)
これでも年頃の乙女(笑)←もうすぐ言えなくなる!?
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