がじゅまるの樹の下で。

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百十踏揚行脚~護佐丸の墓~

2010年06月29日 | ・『百十踏揚』を読ム

今月初めに、ふらりと行った中城城址のついでに、
護佐丸のお墓に寄ってみました。

これまで行ったことがなかったので
中城城址のパンフレットで場所を確認してから。

入口に立派な案内表示が立っていたので
すぐに分かりました。

お墓までの道も整備されていて、
緑のトンネルの中を、奥深く、歩いてゆきます。

では、百十踏揚行脚。


■護佐丸の墓■


―――どれくらい経ったであろうか。

犬の吠え声に混じって、馬のいななきを聞いたように思って、
護佐丸は、ハッと目がさめた。

続いて、ブオーッと法螺の音のような、鈍く思いひびき―――。

「なんだ?」

護佐丸はガバと、夜具をはねのけて、寝所を飛び出した。

ブオーッ、ブオーッ―――

明らかに法螺の音が、北空にとどろき渡った。





そこへ、二の郭から、将の一人が転げ込んできた。

「敵は、敵は……勝連、阿麻和利!」

と、悲痛な声で叫んだ。

背に矢が突き刺さっていた。

「勝連軍は、首里の御旗を、打ちふり、首里の御旗ぞ、
これは王軍ぞと、声高に、呼ばわって、おりまする」


「何と?首里の御旗と?しかと、相違ないか」





南の表門も破られたらしい。
喚声があがり、激しい干戈のひびきがおしよせてくる。

「お、表門からは、う、鬼大城殿……
し、首里の軍勢で、ござりまする……」



「百十踏揚 357-」(与並岳生著/新星出版)


 


南の拱門が破られ、
黒い唐甲冑姿の鬼大城が姿を現した。

館は激しく炎を噴き上げ、
庭には火の粉が舞っていた。

その火の粉の中に、るいるいと、身体中に矢を突き刺されて倒れている
中城の武将の姿があった。


「……」



ゴウゴウと音を立てて燃え盛り、
崩れ落ちる館の炎の中に、
護佐丸は呑み込まれたのであろう。


(さらば、護佐丸公……)


さすがに、心の中に呟いていた。
万感込み上げてくるものがあった。



天下一の武将、
尚巴志王とともに北山征伐をなし
三山統一を成し遂げたあこがれの古英雄、
歴史のような存在―――。

その一代の英傑が今、その最期を遂げた。



「百十踏揚 372-」(与並岳生著/新星出版)




小説、「百十踏揚」の中でも臨場感あふれる
護佐丸・阿麻和利の乱の場面でした。

(対 中城戦もいいが、対 勝連戦がまた泣けます…)

引用にもあったように、
阿麻和利は王の指示により(もしくは許可を得て?)、
左三つ巴の御紋を掲げた王軍の立場として中城に攻め入ります。

そして、護佐丸を打ったのち、
すぐに鬼大城を総大将とした王軍に打たれてしまうのです。

だから、護佐丸と阿麻和利は同じ年(1458年)に死んでいます。



どちらも「王軍」によって滅ぼされた中城と勝連ですが、
のちに王府によって編纂された「正史」には
中城・護佐丸=忠臣
勝連・阿麻和利=逆賊

となっています。

なぜ、護佐丸が正史で「忠臣」と書かれるほど名誉回復したかというと、
のちに、護佐丸の子孫が「毛氏」一族(テンペストでもお馴染み!)として大いに繁栄、
琉球王府にとってなくてはならない存在となったから、

と考えられています。

護佐丸の子孫は、今でもたくさんいて、
(護佐丸はかなり長生きしてたあげく、そうとう色々なところで子を産ませた…らしいことや、毛氏の繁栄も手伝って)

なんとまー、
私の身近に2人もいることが判明シマシタ



歴史はつながる、

歴史はつづく…。


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