第一尚氏王統、最後の王様、
尚徳(しょう とく)王の陵墓跡です。
実はこの写真は去年の5月中旬に撮った写真。
識名園に行く途中で偶然出くわした史跡です。
住宅街の、道路沿いにポンっと立っておりました。
尚徳王はワタシのブログにしょっちゅ~出てくる
阿麻和利の時代の尚泰久王(6代王)の第3男児(側室腹)。
21歳で即位し、29歳で急死します。
この急死こそが、第一尚氏王統最後のミステリーなのですが…
というわけで、百十踏揚行脚。
■尚徳王陵墓跡■
尚徳王が薨じたのは、成化5年(1469年)4月22日(太陽暦六月2日)である。
在位9年、寿29という若さであり、
その死は、明国皇帝の勅書にも
〈遽焉として薨逝〉
とあるように、いかにも「急死」の印象がある。
王府正史を読むと、彼は「暴虐王」として口を極めて罵られ、
そのしつこいまでの書きぶりから、
「殺された」印象が強い。
琉球王府四史書は、筆をそろえて尚徳王の“悪政”を
激しい語調で罵っている。
*
前王をこのように悪し様にこき下ろし、
代わった王の徳を賛美するのは、易姓革命の常であるが、
とはいえ、尚徳王に対するしつこいばかりの悪罵は極めつけといえる。
もちろん、それら王府史記のすべてが、
尚徳王を滅ぼした金丸―――尚円王統下に編纂され、
金丸(尚円王)の「徳」を称えるために、
その対極に尚徳王を置いているわけである。
したがって、尚徳王の業績は覆い隠されてしまっているわけだが、
しかし、尚徳王の治世で特筆すべき業績も多かったのである。
この点、見落とすべきではないだろう。
「百十踏揚 631-」より (与並岳生著/新星出版)
今では、尚徳王暗殺説が一般的なような気がします。
尚徳王の父、尚泰久王の右腕として知恵と権力を誇っていた金丸は
尚徳王と対立し、内間村に隠居します。
そして、尚徳王薨去直後に金丸(派)によるクーデターが勃発。
尚巴志に始まった第一尚氏王統は終わりを告げ、
血のつながりが全くない金丸が「尚円王」と名乗り、
第二尚氏王統をスタートさせてゆくのです。
どうしても尚徳王の急死は、金丸(派)によるもの、
という感が強いですね。
7代続いた第一尚氏のお墓。
2代尚巴志~4代尚思達のお墓は読谷村の佐敷森、
6代尚泰久のお墓は玉城の冨里、
7代尚徳のお墓はこちらの那覇市識名、
三山統一の実行者・尚巴志が父をたてたゆえの、
1代目尚思紹のお墓は佐敷にある佐敷ようどれ(※未体験)、
・・・…あれ?
第5代の尚金福王のお墓はどこだ…?
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おもしろいですね。
それにしても、五代目の尚金福王のお墓は
どこにいったんでしょうか。
気になりますね(笑)
つながってつながってどんどん広がっていくのが楽しいですね♪
尚金福王のお墓…これは意地でも探したくなってしまいました(笑)
(ネットで検索してもなかなか情報発掘できなくて~(T_T;))