沖縄の史跡めぐりが1つの趣味になりつつある和々です。
たくさん周って、たくさん写真撮ってきたのに
まだ紹介していないグスクがたくさんあります…
その中の1つ、中城城跡(なかぐすくじょうし)をご紹介します
はい。
昨日読了したばかりの「百十踏揚」の影響です(笑)
↑の写真、中城城散策はここから入ることになっているので
ここが正門とおもいきや、こちらは実は裏門です。
正門エリアは1番下の写真に当たります。
中城城跡も「琉球王国のグスク及び関連遺産郡」と称される
世界遺産の1つです。
“琉球戦国時代”の琉球きっての武将、護佐丸(ごさまる)の城です。
(琉球では“按司(あじ)”、と言います)
護佐丸は読谷村にある座喜味城の城主だったのですが、
にわかに力をつけて首里王府の脅威となりつつあった、
勝連の阿麻和利を見張るために、ここ、中城に移ってきました。
首里、中城、勝連の位置関係は次の記事で見ることにして…。
さて、中城城跡。
阿麻和利を制するために作られただけあって
軍事的な構造もいくつか見られます。
これは、鉄砲穴?
(正式にはなんて言うんでしたっけ…)
ここだけじゃなく、城壁にいくつか見つけられます。
種子島への鉄砲伝来の100年以上も前に、琉球にはすでに“鉄砲”が。
実際、護佐丸・阿麻和利の乱のものであろう弾痕もあるのだとか。
中城城内には鍛冶屋跡も見ることもできます。
言い伝えや正史でどうであれ、
ここ、中城城で護佐丸・阿麻和利の乱といういくさがあったのは事実です。
大きな戦場となった場です。
1458年、十五夜の宴も更けた頃、
阿麻和利を総大将とする“官軍”がここ中城城を攻めてきます。
阿麻和利軍が掲げていたのは
首里王府を示す「三つ巴」の御旗。
首里王府だと知った護佐丸は、王府に対する忠心ゆえに
はむかうことはできぬ、と自害。
そのエピソードに基づいて立てられたのが
この「忠魂稗」かと。
でも、何度も書いてますが、
護佐丸・阿麻和利の乱の本当の背景は謎。
この乱で護佐丸を討った阿麻和利は、
ほどなくして今度は首里軍に滅ぼされてしまいます。
首里王府にとって脅威となっていた勝連と中城、
阿麻和利と護佐丸。
この2大脅威を取り除くための計略があったのかなかったのか。
はてさて。
私個人的にはやっぱり王府の策士、金丸の策略だと思うケド…
だって、その後今度は金丸“派”が王府にクーデターを起こして金丸が王座につくのー。
これが“第二尚氏王統”の始まり。
グスクなんて、単なる石積みだし、
首里城みたいに建物などが復元されてるわけじゃないし、
ぶっちゃけ、なにがどう、というわけではないけれど、
こうやって歴史や時代背景を知ってから訪れると、
非常に感慨深いものがあります
なので、
勝連城跡や中城城跡を訪れる際には
「百十踏揚」(与並岳生著)、
首里城を訪れる際には
「テンペスト」(池上永一著)
の一読をオススメいたします(笑)
結局それ?
写真は今年7月に撮ったものです。
この日、「さんかく山のマジルー」の野外上映会があったので
そのための会場設営中でした。
写真に写っているライトやらなにやらはそれです。
いつもはないですよー。