残波岬の灯台のすぐそばに、銅像が立てられました。
泰期(たいき)像です。
進貢使として琉球で初めて中国へ渡った人です。
進貢とは、偉大なる帝国である中国に服従を誓うことで、
その使いとして派遣されるのが進貢使です。
服従を誓う、と書くとなにやら心穏やかな感じがしませんが、
当時の中国(もちろん当時は“中国”という名称ではないですが)は
琉球のほかにも進貢国が多々あり、
それらは主従関係のようなものでした。
進貢国であるゆえに、中国との貿易が許され
文化的にも経済的にもプラスになっていったのです。
こちらがその進貢するための船を描いた
「進貢船の図」です。
最も、泰期の時代の琉球は、
まだ三山統一(琉球版天下統一)前の、“琉球王国”ができる前の話しですが。
この銅像の下にあった解説文です。
(前略)
読谷山(現読谷村)宇座の泰期は、1372年、察土王の御名代として、
中国への初の進貢使となった人です。
よって泰期は、中国の歴史に初めて名を留めた琉球の人物となり、。
「明史」に3回、「明実録」に5回も登場します。
中国へ進貢すると、莫大なみかえり品が贈られますので、
「おもろさうし」では唐商い(とう商い、中国との交易)としたのです。
泰期こそは、中国の文物を琉球に正式ルートで導入した先駆者だったのです。
指をさし、向こうに見えるのは中国大陸。
たとえ残波の海が荒れていようとも、
いざゆかん。
果報をもたらす夢の大陸へ。
なんだか、桂浜の龍馬像も思い出される銅像です。
(でも泰期像、思ってたよりも小さかったー。…いや、龍馬像がでかすぎるのか?)