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がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

当サイトの掲載写真・イラスト等の無断転載/無断使用を禁じます

乙女ゲームのキラキラ男子

2016年08月27日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

時代考証や琉球エッセンス
完全無視
琉球史マイナー人物を
乙女ゲーム風にキラキラ男子化してみるシリーズ。

 

昨日までに5人をUPして
目標10人の折り返し地点まで来たので
ちょっとブレイクタイム。

 

 

ところで、
このシリーズのテーマである
「乙女ゲーム」って
どういうものか分かりますか?

いわゆるギャルゲーの女子向け版
なんですけど、
それでもピンと来ない人のために
定義を書きますと…

 

女性主人公(プレーヤー)が、
登場人物である男性キャラクターを攻略して
恋愛を楽しむ、
女性向けゲームの総称。
「乙女ゲー」「乙ゲー」と略される。

(参/コトバンク)

 

おそらく、これなんかもそうだよね。

 

なので乙ゲーの中には
それはもうバリエーション豊かな
イケメンたちが多数登場します。

プレーヤーはその中から
好みの男性キャラにねらいを定めて"落とし"、
疑似恋愛を楽しむ、
というものですね。

 

スマホゲームの乙ゲーなんかは
テレビCMとかもやってたりするので
なんとなくイメージできるのでは?

ワタシはやったことないんですけど…

 

で、その中に登場する男性たちは

若い

髭なし

イケメン

基本ロンゲ
(全部長髪じゃなくても前髪は目にかかる長さ)

カラーヘアー

が基本条件のようで。

 

 

たとえ設定年齢がおじさんであろうとも
見た目は10代~20代前半という
超法規的措置
が取られているわけです。

 

 

なので髭やヘアスタイルにこだわりのある
琉球史キャラたちも

敢えて

髭無しの
サラサラヘア~の
見た目20代以下

となるわけです。

 

これもそう。

 

というわけで、
次記事では↑のおじいを

超法規的に
キラキラ男子化させてみることにします。

 

 


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謝名親方の墓

2016年07月19日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

識名園の帰り、
てんtoてんに行けなかったので

代わりに(?)すぐ近くの識名霊園に。

久々の墓マイラー出動です。

ここにあるとは聞いてはいましたが
直接訪問することはまだなかった
(識名園でも5年ぶりなんでネ…)
謝名親方(謝名利山)のお墓。

墓石には

鄭迵(ていどう)謝名親方之墓

とあります。

 

 

周りには門中関係のお墓がずらり。

謝名親方のだけ個人墓なのかな。

 

Who's 謝名親方??→   



すぐ後ろに見えている墓石が謝名親方のもの。

 

謝名親方のすぐ手前の列には
王族(向家)の墓が。

向氏 冨名腰門中とあります。

ワタシが中学生だったとき、
冨名腰 朝○っていう名前の先生がいたのを思い出す。

王族の子孫だったんだなぁ…。

ちなみに今も同僚に「朝」がつく人がいます。
シーミーには玉陵に行くそうです。

ちょっと意識すれば士族・王族の子孫なんて
まわりにゴロゴロしてるもんなんですね…。

護佐丸や賢雄の子孫もね。

 

 


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栄枯盛衰

2016年05月22日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

ここんところ書いている西原の金丸関連史跡。

この冊子を元に紹介してみました。

その名も「ガイドブック 内間御殿」

西原町教育委員会の発行(2015.2)です。

 去年、
金丸生誕600年のシンポジウムを聴きに行ったときに
いただきました。

 

 

中は史跡マップや内間御殿の歴史、
金丸の生い立ち漫画など
オールカラー18ページのなかなかの充実度です。

前記事のウガンジャマーなどは
こちらに載っていた記述です。

 

 

この冊子での1番気になったページはここ。

最後の奥付。

 

…何、この意味深なコスモス。

 

栄枯盛衰ってか?

 


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金丸の元妻

2016年05月21日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

 

前記事の続き。

 

内間ノロとラブラブに過ごしていた金丸。

それがいつの頃かは分かりません。

その頃、すでにオギヤカと結婚していたのか
それともその前なのか。

出世してからのことなのか、
それともまだ放浪の身のことなのか…。

 

ともあれ、金丸には一緒に伊是名を脱出した妻がいました。

その妻について一切謎なのがミステリー。

早くに命を落としたのか、
それとも最初にたどり着いた国頭に置いたままにしたのか。

金丸が放浪南下する場所場所で
女を作ってるからには
一緒に放浪したとは考えにくいような気がしますが…。

しばらく国頭に置いていて、
内間に安住した頃に弟の尚宣威と共に呼び寄せたのでは
と推測している本もありますね。

 

 

さて、写真は西原にある「ウガンジャマー」と呼ばれるスポットです。

この場所は

 

首里へ登る金丸へ、元の妻が再縁を求めた場所

 

と言われているそうです。

 

…元妻って…誰!?


さあ、伊是名の妻か、それとも内間ノロか、
それともまた別の女性か!?

 

再縁を求めたということは
わざわざ離縁して首里にのぼったということ。

なぜ離縁する必要があったのか。

 

やはり、オギヤカパワーか!?

 

実際、元妻の記述が一切ないのは
オギヤカによって抹消されたのでは
とみる人もいます。

 

 

ウガンジャマーのエリアにあったカー(井戸)。

 

 


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二人の愛の巣

2016年05月19日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

前記事の続き。

 

内間ノロさんと出会った金丸。

ちゃっかりというか、しっかり(?)
デキちゃうわけですね。

(二人の間にできた子供については→

 

 

ナコーモーのすぐ近くにあるこの
カヤブチ御殿(うどぅん)は
二人が一緒に過ごした場所
とも言われています。

 

史跡案内板には、
内間ノロが金丸に送った琉歌が掲載されています。

 


↑クリックで拡大。金丸と出会った経緯も載っています。

 

内間ノロさん、
相当金丸にハマってたようですね。

 

ところで、
金丸が内間に移り住んだ時、
一緒に暮らした「妻」は誰なんでしょうね。

オギヤカ年齢表を見てみたら
金丸が隠居した時には
すでに結婚してたっぽいのですが…。

その時、内間ノロはどうしていたのでしょう…。

 

ってゆーか、
伊是名から一緒に出てきた元の「妻」は!?

 

(続く)

 


 

*再掲載*

 

ワタシはツイッターはやってません。
ワタシと同じ名前や肩書の人がいても
全く無関係であることを再度記しておきます。


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ナコーモー

2016年05月18日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

西原の329号線の北向け車線をよく通る人は
必ず目にしたことがあるであろう、この御嶽。

ワタシも子供のころからよく目にしていました。

この御嶽の名前は「ナコーモー」もしくは「ナコモー」

なんだかかわいい響きですね(笑)

「モー」とは「毛」、
原っぱのことを言います。

万座毛の「毛(もう)」と一緒です。

当時はこの辺りは原っぱだったのでしょう。

 

ここは、西原町内間が誇るあの金丸が、
内間ノロさんと出会った場所!

 

そして、もちろん、例外なく
LOVEへと発展するのです。

 

(続く)

 

 

 


あれ、ナコーってもしかして「仲」??


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知名グスクと内間大親

2016年03月28日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

南城市、テダ御川(うっかー)の手前にある、
知名(ちな)グスク。

 

昔々、知念村に古根という人がいて
村人から大変尊敬されていた。

西原間切内間の女を妻としていたが
なかなか子供に恵まれなかったので
妻の一族から養子を迎えた。

その養子は知名地頭となり、
内間大親と称された。

 

その、内間大親の居城が知名グスクと言われています。

 

参/「門中拝所巡りの手引き」(月間沖縄社/1986)

 

 

はい。


ここで「もしや?」と思った方、

ビンゴです。

 

 

その内間大親は金丸が内間にいた頃、
(内間)ノロとの間に生まれた子で、

古根の妻は
そのノロの妹だったという伝えも
あるそうです。

 

ほらまた出た、
金丸隠し子わんさか節。
一体これまで何パターン紹介した?(笑)

 

まぁ、全部が全部本当ではなでしょうが、
でもこのように伝わっている、
ということ自体が興味深い事実ですよね。

でも金丸と内間ノロとのラブはよく見るので
ホントだったかもしれないけど。

 

金丸の本命や、いかに?

 

「すべてが本気であり、本命なのだよ」

 

なーんて言いそう(笑)

※妄想です※

 

 

そんな知名グスクのそばのテダ御川。

東御廻いのスポットの一つ。

 

 


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楽>学の琉球史講座

2016年03月06日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

雨の休日です。

でも寒さはさほどなく、春を感じますね。

陽も日に日に長くなってきているし、
春に、そしてワタシが大好きな夏に向かっているんだなぁ、
と思うと嬉しくなります。

進路が決定した皆さんもおめでとうございます!
澪之助もおめでとう!

高校入試は今からですね。
まずは体調管理しっかりしてベストを尽せるように!

↑みたく、
も~ど~でもい~し…
なんて言ってる場合じゃないですよ!(笑)

 

 

で、↑は何かというと、

「薩摩侵攻後の琉球人の図」

です(笑)

先週、久しぶりに思春期の少年少女たちを対象にした
琉球史講座を行いました。

今回は近世を含む第二尚氏を中心に。

(時間の関係上、尚巴志の三山統一には触れたけど、
護佐丸・阿麻和利の乱は全カット!)

これまでのコンテンツ(スライドや資料)も
大幅に変更&追加!

「比較!戦国大戦&御後絵の尚円」と
「楽童子を現代にあてはめると」
が、なかなかウケてくれました(笑)
(安倍内閣がアメリカなどとの外交のために、
ジャニーズ事務所を設立し国をあげてジャニーズ集団の育成にあたり、
社長のジャニーさんは大臣並の国家公務員、みたいな)

↑はそのために新しく描いたイラストの一つです。

久しぶりに魂込めて講座したので
終わった後はやり切って抜け殻状態でした(笑)

 

当たり前ですがワタシはあくまで「琉球歴女」なので
ワタシよりも琉球史に詳しい専門家さんは山ほどいます。
でも、ワタシの売りは子ども(や女性)に合わせたノリと、
豊富なビジュアル(イラスト)提示!
イメージするイラストがなければ↑みたく自分で描いちゃう!

もちろん、ビジュアルはイメージなので
「正しい」ものではないかもしれませんが、
まずは


楽>学

というスタンスのワタシにとっては
必要不可欠なエッセンスです。

使えるイラストもだいぶ溜まってきてるしね。
祭温と羽地朝秀は描きたそうっと。

まずは琉球史を楽しんでもらえること、
興味を持ってもらえること、
そしてちょっとだけ「へぇ~」ってなってくれること、
を意識して組み立てています。

そんな琉球史講座をご希望の方は
ご依頼承ります

(詳しくは→

 

 


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尚円、全国デビュー

2016年02月21日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

なんか、ここんところ、
金丸が即位したときに関する過去記事のアクセスが多いなー
と思ってたら…

 

なるほど、

尚円が戦国大戦なるカードゲームで
全国デビューして評判になってるんデスね。
戦国大戦、名前は聞いたことあるけどよく知らない。

 

で、全国のゲームファンが尚円を調べるうちに
たどり着いた、という感じでしょうか。

基本、ワタシは即位前の第一尚氏時代贔屓なので
「金丸」と書いていますから、
「尚円」表記のある記事は即位関係になる、と。

 

で、戦国大戦の尚円、
ちょっとググってみたら、
オギヤカ(宇喜也嘉)さんもいるようで…。

 

で、
驚きのビジュアルはこちら!

 

尚円

宇喜也嘉

 

…オギヤカさんはまぁいいとして、
(これまでのキツい女性像を覆すビジュアルというものもいい。
ワタシも過去に描いてみたことあるし

尚円はすごいな…。

この感じだとどちからというと尚徳っぽいんだけど。

 

ちなみに、「金丸」が「尚円」になったの、
54歳だからね。

いいおっさんだよ。

ってか、当時の感覚だとおじぃかな

 

第一尚氏の王様たちとは違って
尚円からは御後絵があるのに、
見事に無視してますな。

いや、ゲーム(エンタメ)だから無視していいけど、
個人的にはエッセンスくらいは入れてほしかったナ…。

琉球史詳しい人が
「にやり」とするような。

そんなら、ビジュアル資料が一切残ってない
第一尚氏の人でやればよかったのにね。

それこそ尚巴志とか。
尚徳とかね。
(もしすでにあったら教えてほしい)

他のキャラクターや時代との兼ね合いもあるのかな?

 

 

ゲームファンの方が尚円カードについて調べた
まとめたサイトもありました。

ワタシのブログ引用もしてくれてます。

 

戦国大戦の尚円王のイラストとセリフの元ネタを調べてみた

 

>銅像自体がなぜ櫂をもたせたデザインなのかは不明です。

 

サイトの最初のほうに↑とありますが、
伊是名から脱出した時の、櫂ですね。
金丸が伊是名の若者たちに殺されそうになって脱出というのは
伊是名村に立てる銅像的にはヨロシクないので
「大海原にこぎだす」という意味にしてるようなので
その象徴でしょうね。
(関連過去記事→  

 

まぁ、お二人のビジュアルはともかく、
こうやって歴史で遊ぶ、楽しむというのは大歓迎。

これをきっかけに、現にこうやって
興味を持って調べる人が出ているんですから、
なによりです

 

トップイラストは「肝高の阿麻和利」の金丸(再掲載)。
やっぱり、最初に出会った時の人物像が1番印象深いよね。

 

 


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おもろ主取

2016年02月13日 | ・琉球史散策/第二尚氏

先日の「現代版組踊 鬼鷲」では、
尚真が後にアカインコの弟子・オモロを王府に取り立て、
おもろ主取として重用した…

とありました。

 

おもろ、つまり神歌。

神歌は古来から霊的パワーを持つ女性が主に扱っていましたが、
王府が管理するおもろ、ということで
男性の役職がおかれました。

 

ん?
おもろ主取って尚真の時代にできたの?

確かに、尚真の時代に身分・階位制度や
神女体制の整備がされたから
そうなのかな??


ちょっと調べてみたけど、
明確な答えは分かりませんでした。

沖縄大百科事典によると、一応、尚真時代にはあったみたい。
(湛氏が尚真代に就き、尚賢王代から廃藩置県まで安仁屋家)

尚真代に始まった役職なのか、
それともそれ以前にも…あったのか。
おもろを派手に操る男性もいたことだし(→ )。

 

ちなみに、代々おもろ主取を務めてきた安仁屋家は
宜野湾間切大山に住んでいました。

ああ、だから宜野湾市民会館で上演→おもろ主取?
って思ったのはワタシの深読みかな?(笑)

 

+

 

ところで、偶然にもこのおもろ主取が管轄していた
「王府のオモロ」を収録したCDを
舞台前日にいただいていました。

 

 

 

最後のおもろ主取となった安仁屋眞刈(~大正5年)から
王府のオモロ5首を伝授された山内盛彬の歌唱が収録されています。

 

王府のおもろは手拍子や楽器などもなく、
言葉もはっきりとしない原始的な抑揚、節まわしです。

夜な夜なこのCDが聞こえ漏れたら
近隣住民にかなり怪しまれるかもしれない(^^;

 

 

でもこの原始的なおもろをそのままに、
バックに今風の音を付けてアレンジしたら
かっこいいだろうな!!

と、昨日の「The Druming!」を見て(聞いて)思いました。

そういう感じのがあったんだよね。

サントラほしーい。

 


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リザン

2015年10月15日 | ・琉球史散策/第二尚氏

先日、結婚披露宴参加のため、
リザン シーパークホテルに行きました。

沖縄では有名なリゾートホテルの1つ、
通称「リザン」ですが、

このホテル名と琉球史は関係がある…
というのは結構有名な話。

 

「リザン」

「利山」

「謝名利山」

 

1609年の薩摩侵攻の時の三司官で、
薩摩の要求に最後まで抵抗し、処刑された人物。

ホテルのHPにも載ってるのでご紹介。

 

 

*「謝名親方利山」(じゃなうえーかたりざん)とは*

親方は琉球王府での役職名。王子、按司(貴族)に次ぐ位。
謝名親方利山は、久米村(現那覇市・久米)の出身。
16 歳のとき官生に選ばれ明に留学をし、その後は明への使者として活躍し、
57歳のとき三司官となり、第7代琉球王朝「尚寧王」の補佐役となる。

独立を保っ ていた琉球王朝であったが、1609 年4月5 日、薩摩が琉球へ侵攻。
武器を身に帯びる習慣のない琉球では、 有効な対抗手段を持ちえず、
刀や鉄砲を持つ薩摩軍の前になす術もなく惨敗し、
民の身を案じた尚寧王の 降伏により共に連行される。

その後、尚寧や利山らは薩摩に連行され、
薩摩藩から起請文にサインするように強制された際に
「琉球の自由なくして生きるかい無し」
としてただ1人反対し、処刑されたと言われております。

 

リザンシーパークホテル谷茶ベイHP/「リザンシーパークホテルの由来」より

 

 

りゅうPON!の「人ものがたり」でも
ワタシが謝名親方を担当しました。

こんなんだけど↓ 結構お気に入り(笑)

 

 


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尚円金丸、600歳。

2015年10月04日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

御後絵バージョン…的な。

 

すんません、

ただの落書きッス…。

 

 

 

尚円王生誕600年祭公式サイト


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御後絵の龍

2015年07月24日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

首里城のシンボルでもある龍。

でも琉球の龍は指が4本。

それは中国皇帝を表す龍が指5本なので
遠慮して指を減らした…
というのはもうお馴染みの話。

そのエピソードを知った時から
なにかと龍の指に目がいくようになり
ちょこちょことブログにも書いてきましたが

ここでひとつ、まとめてみましょう。

龍と言っても建築物の装飾、
漆器などの工芸品から絵画まで色々ありますので
今回は琉球国王を描いた御後絵をピックアップ!

御後絵に描かれた龍は
はたして何本指なのか…!?

 

 

尚円王 … 4本(背景のカーテン)

尚真王 … 4本(背景のカーテン)

尚元王 … 3本(背景のカーテン)

尚寧王 … 3本(背景のカーテン)

尚豊王 … 4本(背景のカーテン)

 

尚貞王 … 4本(服)(背景のカーテン)

尚敬王 … 4本(背景のカーテン)(背景の扇)・5本(服)

尚穆王 … 4本(背景のカーテン)(背景の扇)・5本(服)

尚灝王 … 4本(背景のカーテン)(背景の扇)・5本(服)

尚育王 … 4本(背景のカーテン)(背景の扇)・5本(服)

 

 

以上が現在確認できる御後絵10点です。

尚貞王で一度区切ったのにはわけがあります。

尚貞の代から、
清国が冊封を行っています。

明国時代の冊封では直接皮弁服をもらっていましたが
清国の時代になると反物をもらい、
それを琉球で服に仕立てていました。

中国で作られた反物だから
5本指の龍の刺繍、ということなのでしょうか。

 

服を自分たちで作るようになった琉球は
時代を追うごとにどんどんエスカレート(笑)

清代最初の尚貞はまだちょっとおとなしいけど、
以後、どんどん派手になっていってます。

皮弁冠も作っちゃってるしね。
五本指の龍(簪)で。

 


清代は琉球の龍の指の数とかそういう形式的なものは
どーでもよかったりしたのかな?

好きにすればー?( ̄д ̄)

状態?(笑)

 

首里城には10点の御後絵が並べて飾られているので
時代を追って変化を見比べることができるので
面白いですよ。

 

個人的には尚元、尚寧だけに出てくる
3本指のほうが気になる(笑)

なんでここだけ?

 

トップ写真は尚灝王。


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八重山の象形文字

2015年07月12日 | ・琉球史散策/第二尚氏

カイダ字(カイダー字・カイダディ)という言葉を
聞いたことありますか?

沖縄にあった象形文字のことです。

与那国で発達した文字で、
八重山地域全般で近代まで使用されていました。

個人的な備忘記録に使われることもあったようですが
主に納税告知書などの公の書類(→板札)に
このカイダ字が使われていたようで、
庶民が読み書きができなかった事を物語っています。

その成り立ちは
首里王府への朝貢、人頭税(1637~1903)との関係があるようです。

一説には、

17世紀ごろに納税制度に伴って導入されたが、
まだ個人差や地域差があるなど完全ではなかった。

19世紀前半になって、
役人による不正行為(中間搾取など)を防ぐため、
大浜親雲上正喜が完全な象形文字を創作して徴収制度を整えた

とあります。

 

参「与那国島のカイダー字をめぐる一考察」(萩尾俊章/2009)

 

 

では、実際にはどのような文字だったのでしょうか。

たとえばこんな感じ。

左から、

一俵、一斗、一舛、一合、一勺

という具合。

物を計る単位ですね。

 

 

では「物」はどのような形なのでしょう。

「油」

ふむふむ。

ひしゃくの形だからかな。
水とか酢とか醤油とか酒じゃなくて
油っていうのがちょっと意外。

 

これは「酒」。

うーん?
なんでこの形なんだろ?

ちなみにこの形の上真ん中に
「↓」を加えると「醤油」になります。

 

「藁縄」

これもちょっと由来不明。

 

 

これは鶏。

左が雌鶏で、右が雄鶏。

しっぽの大きさが違う。

雄鶏にはトサカをつけると
もっと区別しやすいかも。

 

この形、個人的には結構ツボなんですけど。

「葱」です。

根っこまで表現してます。

なんかそのままキャラクターにできそう。
ピクミンみたいな(笑)

 

 

では、ここからはクイズです!

カイダ字にチャレンジ!
※はヒントです

 

【1】

※見たまんまです。

 

 

【2】

※下の線が二重線になってるのもポイント
鳥居ではありません。

 

 

【3】

※動物です。よく特徴をとらえてます

 

【4】

※穀物です。
沖縄といえばこれ、みたいな。

 

(答えは最後に)

 

 *

 

 他にもいろいろなカイダ字があって
一つ一つ見てみると面白いですよ。

なお、地域(時代?)によって
微妙に形が変化しているものもあり、
今回紹介したものは
石垣の南嶋資料館にあった
「竹富島の象形文字(カイダジ)」を参照しました。

(単位のやつは別資料をみましたが…たぶん、単位はそう変わらないはず)

 

 

*答え*

1 卵

2 家

3 豚

4 芋


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【続】またまた、金丸の落とし子

2015年07月10日 | ・琉球史散策/第二尚氏

前記事の続き)

 

北谷ノロ真加登金が金丸との契りを隠し、
密かに生んだのは一人の男の子。

彼女は赤ん坊を山内村の大名神宮裏の林にいったん置き、
周りには捨て子を拾ったかのように言って
自分で養育した。

"父母不詳の不遇の子"は
大良金(うふらがに)と名付けられた。

 

大良金が7つの時、母である真加登金の願いにより
越来間切の大湾按司に引き取られ、
すくすくと成長。

成長した大良金は大工仕事に力を発揮し
首里王府のお抱え大工に。

さらにその功をたたえられ士族に列せられた。

 

その後、明国に留学し学問を修め帰国すると
なんと三司官に大出世!!

尚真、尚清時代に三司官として大活躍した彼は
"故郷"である山内村の拝領を願い、
山内村に永住することとなった。

 

 

童名・大良金、唐名・楊太鶴(ようたいかく)、
和名を山内昌信(しょうしん)と言う。

彼は山内の始祖として、
また山内大明神として祀られている

とさ。

 

参「おきなわ 村の伝説」(青山洋二著/那覇出版社・1988)

 

 

お宮の中には
「山内大明神」と書かれた石碑。

修復されていてきれいです。

子孫の方々や地域の人に大事にされているのがわかります。

 

 

お宮の右側には、
中山への結び(通じ)となる「ウタキ」

 


左側には、
移設された火の神。

 

 

この史跡は知っていたけど、
まさか祀られている人が金丸の子(伝)だとは知らなかったなー。

金丸の落とし子伝説、
もっと調べてみたら
もっと出てきそう…(笑)

 

台風9号暴風域中ー。


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