joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

ショッピングモールの子供づれ

2006年03月21日 | 日記

夕方頃、机で本を読んでいても気分も身体も窮屈だったので散歩に出かけました。

以前なら散歩に長時間かけると歩いている間退屈さを感じていたけど、今日は携帯MDプレーヤーを持って英語を聞きながらの効率的な散歩です。

どんどん歩いて最寄の駅ではない駅からその次の駅近くまで歩いてしまいました。さすがに帰ってくるときは少し疲れた。

途中、デジカメを入れた薄いバッグを落としてしまった。壊れてくれなければいいのだけど。親のものだし買ったばかりだし高かったし。

JR垂水駅近くのショッピングモールまで言ったけれど、例のごとく小さな子供を連れた親子が多い多い。少子化なんだろうけど休日にショッピングモールに行くと若い夫婦の子供づれがたくさんいます。

ショッピングモールというレディメイドされた建物が今の若い夫婦を引きつけるのだろうか。


涼風

映画館上映とDVD販売が同時になる日

2006年03月21日 | 映画・ドラマ
大好きな映画でもせいぜい4,5回、普通に好きな映画でも2回、ほとんどの映画は一回しか観ない僕のような人間にとって、映画のDVDを買うという感覚はよくわからない。今回のアカデミー賞の作品賞を受賞した『クラッシュ』などはアメリカで数百万枚も売り上げているそうです。もうほとんどCDと同じ感覚ですね。値段も廉価版ならCDと同じかそれより安いものもあります。1000円程度のDVDであればレンタルでニ、三回借りるのと同じなのだから、消費者にとっても「買ってもいいや」と思いやすくなっているのでしょう。

こうなるとすでに映画会社にとっても収益の回収を映画館と同じかそれ以上にDVDの販売に求めるようになっているのかもしれない。

そうすると映画会社にとってはわざわざ映画館で上映してから数ヵ月後にDVD販売をするという手順を踏む必要は本当はないのかもしれない。いやむしろ、DVDを見てよかったから映画館で観ようという消費者も必ず出てくる。

液晶大画面テレビやDVDプロジェクターの普及で自宅でも映画館感覚でDVDを観ることができる今の時代では、映画館で映画を観なくてはという必要性は少ないのかもしれない。

つまり映画館の上映とDVDの販売はそのうちまったく同じ日に行われるかもしれないし、DVDの先行発売ということもありうる。DVDで口コミが拡がり未定だった映画館上映が行われることもあるでしょう。


涼風

参考:「試写会の警備」『新佃島・映画ジャーナル』

某会社からの電話

2006年03月21日 | 日記


昨日の夜、某会社の営業の人から「今度仕事で神戸に行く用事があるので、一度○○様にお会いしてわが社の商品についてご説明させていただきたいのですが」という電話がありました。

この営業マンの方とは、一度その商品説明会に遊び半分で出席したことがきっかけで、何度か電話で話したりしたことがあります。

その会社の商品というのは、基本的に身体にいいもの、環境にいいモノを届けようという会社の理念に沿うもので、他の企業以上に「社会貢献」というものを意識して経営されているのだと思います。

そういう企業は多くはないので「いい企業だなぁ」と私は思ってはいたのですが、正直今の私のお金の状態では簡単に「ハイ、買います」とは言えないし、しかもわざわざ東京の本社から来る営業マンの方にマン・ツー・マンで合っていただいて時間を取ってもらっても相手に迷惑をかけるだけだと思ったので、そのことを伝えました。

相手としては自分の会社の商品に興味を持ってもらった人に商品を説明したいと考えたのだと思いますけど、たぶん今の私であればどんな話を聴いても「お金は出せない」という意識だけが先行してしまうと思います。

その後、少しその人とはお話して、その会社を創った代表者の著名な方(著書も数十冊)についての話や、その会社の雰囲気などを逆にこっちから聴いたりしました。印象的だったのは、やはり「社会貢献」ということを第一に考えて仕事をしていて、職場の雰囲気も良く、離職率がかなり低いということです。そういう職場が実際にどういうものなのか、一度見せてもらいたいと思ったぐらいでした。


涼風

権威

2006年03月20日 | reflexion


権威(親・教師・先輩…)に私(たち)が反発するとき、それは大体「彼(彼女)には誠実さが足りない」「彼(彼女)は間違っている」という言い方をします。要するに彼らの人間的成長度を批判し、彼らがそれほど立派な人間ではないことを批判します。

面白いのは、私(たち)がそういう人間的成長度の物差しを持てるようになったのは、そういう権威の人たちが私たちを育てようと色々な物差しを私たちに与えようとしたから。

私たちに権威の人たちが与えようとした人間的成長の物差しを全面的には私たちは受けれいません。一部を受け入れつつも、権威に対して反発し、権威の人たちが十分でないことを私たちは批判します。

でも、そうして私たちが権威の人たちを批判できるのも、人間的成長ということ自体は正しいことであると私たちが認識しているからです。人間的成長の内容については人それぞれで違いはあっても、私たちは「人間は成長し、正しくあらねばならない」という前提だけはすべての人が受け入れています。そしてそういう前提を私たちに教えてくれたのは権威の人たちだったりします。

私たちが権威を批判できるのも、権威が私たちを育てようとしたからだと言えます。

「○○が正しい」と権威に教えられるとき、私たちはその「○○」の内容には反発します。しかし何が「正しい」かを探すという態度は、権威が私たちに示して教えてくれたものです。

また、権威が「○○が正しい」と私たちに言ってくれなくては、「いや△△の方が正しい」と私たちは考えることができません。○○のことを知らなければ、△△の存在を知ることができないのですから。

このことは、権威の存在が私たちの生活にとっていかに重要を示しています。

涼風

第78回アカデミー賞授賞式

2006年03月20日 | 映画・ドラマ
先週の土曜日にBSでアカデミー賞の授賞式がありました。

2時間半の内容だけれど、それでもかなり編集されていたみたい。実際は5、6時間続くものだったと思います。レッド・カーペットで何度もコマーシャルが入り、授賞式で技術部門で数多くの発表が行われるからでしょう。最初のレッド・カーペットのスター達が会場に入る時間は、生中継で観ていたらコマーシャルが何度も入ってイライラして仕方なくなるでしょう。編集でよかったかな。

それでもカーペットを歩くスター達の顔はみんな晴れ晴れとしている。やっぱりスターになる人たちはその顔からオーラがバンバン出てみんないい顔している。器が大きいんだな。

そんな緊張した感じもなく、みんなリラックスして式を楽しみにしているのが伝わってきました。学校時代の土曜の午後という感じだろうか。見ていてこちらも気が抜けてほっとするような感じでした。天気も良かったし、気持ちよかった。

式では、ニコール・キッドマンが印象的。そのきれいさにこっちがどきどきしてくる。キッドマンはとくに好きな女優というわけではないけれど、それでも映画を見ているとその実力を認めざるをえない、そんな女優です。

レイチェル・ワイズは期待していたのだけれどこの日はその綺麗さがあまり目立たなかった感じ。妊婦とはいえドレスもちょっと地味だったかな。

でもインタビューに答える際にはその気品と知性が伝わってきました。話しているときの彼女はやっぱり輝きを放っています。

この日一番輝いていたのはリース・ウィザースプーン。彼女のヒット作『キューティ・ブロンド』はとても面白かった映画だけれど、だからといってそれで彼女のことを大好きになるということはなかった。

しかし授賞式での彼女は映画でのコミカルな印象と違ってもっとかわいかったしきれいだった。かつ映画でみせるファニーな雰囲気もそのまま。スピーチは感動したよ。あれだけの大スターでありながら素朴さと純真さを観るものにそのまま伝えていました。

涼風

『父が子に語る世界歴史』第1巻 ジャワーハルラール・ ネルー(著)

2006年03月19日 | Book
『父が子に語る世界歴史』という本の第1巻を読みました。著者はインドの政治家のネルー。彼がインド独立運動を指導していた際に牢獄に入れられ、その獄中で娘に世界史を教えるために書かれた手紙からなっている本です。

まず獄中にもかかわらず、本を書くほどのエネルギーを持続させた点が目を見張ります。しかもその分量は日本語訳版で8巻にも上るほどの分量。おそらく獄中でも本を仕入れることができたのでしょうが、元々彼がいかに歴史好きだったかが分かります。

彼が娘に、「お前には歴史を無味乾燥な事実の羅列や年代のつながりとして見て欲しくない」と語る場面があります。その言葉どおり、この著書では、一つ一つ一つの歴史事実に対する彼の主観が強調され、そのためかえって歴史の動きが生き生きとしたものとして読者に映ってきます。

一人の本(全8巻)で世界の全歴史を収めようとするのですから、当然専門家から見れば粗い部分が多いでしょう。また社会の構造や民衆の生活について詳しく記述されているわけではありません。彼は歴史学者ではないのですから。

しかし、ここには学校の教科書のような退屈な事実の羅列はなく、過去の一人一人の王、一つ一つの社会についての著者の立場=独立運動家としての民主主義に対する思い入れからの評価が述べられ、それだけ初学者に「なぜ歴史を学ぶ欲求が人にはあるのか」を教えてくれます。

私は大学入試でも歴史を勉強しなかったので、大学入試での歴史がどういうものかは分からない。ただ、教科書だけを見るなら、公平性・客観性というものを重んじるあまり、おそらく単なる事実の記述に終始しているのでしょう。

それでも、予備校の情熱のある先生なんかは、面白く歴史を論じているのかもしれない。

ともかく、著者はインド人としての立場から、古代・中世におけるヨーロッパの後進性、ローマの腐敗、インドの村の民主性、カースト制度の柔軟性、中国の先進性、モンゴル人の動きの重要性、などなどよりアジアの地位の重要性を強調します。

歴史に詳しくないと古代で学ぶべき歴史の動きはギリシア・ローマだけのように私なんか思い込んでしまいますが、著者はそれは世界の中のほんの一つの動きに過ぎず、しかも他の残りの世界に比べて特筆すべき点が多いわけではないこと、むしろ世界の中心は中東・アジアに見るべき点が多いことなどを指摘します。

それはそれで一つの偏向だろうけど、著者としては、標準的な世界史の見方に対して、自分の子供に少しでもよりバランスのある世界の見方を教えたいという想いの表れなのでしょう。

先週の『プロフェッショナル 仕事の流儀』「なにくそ!負けたらあかん」英語講師・竹岡広信」で京都の英語塾の先生が取り上げられていました。私は最初のほうを見なかったけど、彼は子供の興味・関心を引き出すために、受験テクニックや暗記の方法ではなく英語の言葉のイメージを一つ一つ教えるのだそうです。

おそらく大西泰斗さんによって広まっているような、言葉とイメージ・感覚との結びつき、言葉は感覚に応じて選ばれることを竹岡さんは教えているのでしょう(もちろん、こうした考え方を述べているのは大西さんだけじゃありません)。

そこで印象的だったのが、とにかく子供が興味を持ってくれるまで待つこと、自分から教えるのではなく相手が自分からやるようになるまで待つこと、それが大事だけどつらい、と竹岡さんが語っていたことでした。

英語にしても歴史にしても、無味乾燥な規則・年号ではつまらないし、それらをイ春季の子供たちに全部覚えさそうというのは拷問に近いし、一度つまずいた子はやる気がでない。そういう子には、勉強が面白いことをまず知ってもらわなくてはならない。

ネールの本にしても、竹岡さんを取材した番組についても、あらためて学校教育について考えさせてくれました。

涼風

利き手と反対の手を使う

2006年03月18日 | reflexion


デジカメで近くの大蔵海岸の写真を撮ってみました。いいところでしょ?


ニ、三日前から、ふだんは右手でしていることを左手で、左手でしていることを右手でするように気をつけています。

これをすることで面白いのは、いかにふだんから自分が無意識の自動反応で行動しているかということが分かること。

椅子に座るときにはいつも右側から座ろうとしていたり、上の服を着るときは左手から通していたり、トイレのドアノブは左手で回していたり、靴下やズボンは左足からいつもはこうとしていたり、いろいろと気づきます。

こんなことをすることを思いついたのは、宝彩有菜さんの『なれたらいいなっ』でエクササイズとして薦められていたから。

利き手でしていることを反対の手ですることで、ふだんの日常の行動をも意識的にするので、意識のフォーカスが現在に向くようになります。

また利き手と反対の手を使うことで当然スピードは落ちます。そのときに「速く速く」という意識の声が頭と身体を急かすように駆け巡るのですが、そういう声を自分は持っているのだということに気づきましょう、ということです。

これをしてみて面白いのは、左手を多く使うことで明らかに普段使っていない筋肉・神経を使うため、少し心身がほぐれる気がすること。

精神科医の神田橋條治さんは『精神科養生のコツ』という本の中で、気分をリフレッシュするのにいいのは、普段動かしていない筋肉を使うことと述べています。

ずっと椅子に座っている人は、椅子に座っていることで使わなくなっている筋肉を動かすことでリフレッシュになります。当たり前のことですが、わたしたちは意外と身体の多くの筋肉を使っていません。ちょっとした、しかし普段はしていない筋肉の動きだけで、どこが自分はだるいのか分かったりします。

利き手と反対の手を使おうとするだけで、眠っていた身体の左部分が動いて少し気持ちいい。また、自分が(攻撃的なまでに)自動反応で家中を動いていることも分かりました。


涼風

デジカメを買う

2006年03月16日 | 絵画を観て・写真を撮って


プリンタ付きでデジタルカメラを買いました。親が。

思わず「そんなお金があるんだったらDVDレコーダーを買ってよ~!」と言いたくなりましたが、べつに僕のために買ったわけでもないので何も言えません。

それに、きっと本人達は、買い物それ自体を楽しみたかったんだと思います。なんてたって「じゃぱネットたかた」でのお買い物ですから。ローヤルゼリーとかよく買ってます。

しかしわざわざプリンタ付きで買っておきながら、早くも「面倒くさいから現像は写真屋に出せばいいわ」とか言っています。そのぐらい私がやります!

普段「節約節約」と言っておきながら、なんでデジカメ買って写真屋に頼むんだぁ~?

買ってからは父親がいじくっているみたいですが、まだ何かを撮っている気配はありません。

僕もメカには基本的の弱いので、用もないのに使い方を覚えようというモチベイションがわきません。しかしとりあえず、父親がいない間にさっさと使い方を覚えてしまおうと思います。

でも覚えたとして何に使うのだろう?子供がいるわけでもないしなぁ。

道を歩いていてきれいな花や植物を見つけても、僕は肉眼で見て感じればそれで満足してしまう性質です。わざわざ写真に撮りたいとは思わない。だって撮らなくたって、またその場所に行けば見れるじゃないですか。

旅行?僕は旅行というものはほとんどしません。でもしたとしても、名所なら写真に撮らなくてもいつでも色んなところで写真を見れるし、そうでなければ一度行っただけの場所を写真にとってもあまり感慨深くならないと思う。

以前一年半だけ海外に住んでいたことがありましたが、さすがにそういう時の写真があればなぁと思うことはあります。海外でなくても、以前住んでいた場所の写真を撮ると、別のところに移住したときに感慨深く見ることができるかもしれない。僕の場合は、金沢、大阪、東京…

ということは、今住んでいる場所の写真も撮っておくと、後々べつのところに住むことになったら、懐かしく見ることができるのだろうか。


涼風

フィリップ・シーモア・ホフマン、オスカー主演男優賞受賞

2006年03月15日 | 映画・ドラマ
今年のオスカー主演男優賞はフィリップ・シーモア・ホフマンでした。

私が彼を初めて観たのは『マグノリア 』での看護人の役。さえないけど誠実な男をとても上手く演じていた。ジュリアン・ムーアに叩かれている姿が印象的でした。

基本的に彼はさえない男の役が多い。

『ワンダーランド駅で』では運動家で定職に就かずフラフラしている男。

『ブギーナイツ 』では主人公に片思いを寄せるが嫌われるやつ。

『コールドマウンテン』 では嘘つきの神父。

『パンチドランク・ラブ』は少し趣が違って、強面のチンピラのボスです。

そんか彼の演技で僕が一番印象に残っているのが『あの頃ペニー・レインと』での音楽評論家役。音楽ジャーナリストに憧れる主人公の少年のメンターという雰囲気で、少年が困ったときに電話越しに的確なアドバイスを出していく姿はとってもかっこいいです。

この役が印象的なのは、他の映画での彼の印象とあまりにも違うので、そのかっこよさが際立ったんでしょう。

内面から滲み出るかっこよさを本当はもった人なんだ、このホフマンという人は。かっこいい人はかっこ悪い役を演じることはできる。でも元々かっこ悪い人間はかっこいい人間を演じることは決してできない。

こうして僕が観た彼の出演映画を挙げていくと、彼の出演映画がどれも傑作であることに気づきます(『コールド・マウンテン』は凡作)。それだけ有能な制作者達に好かれる何かをもっているのでしょう。

『マグノリア 』『ワンダーランド駅で』『ブギーナイツ 』『パンチドランク・ラブ』『あの頃ペニー・レインと』、どれも自信をもってお薦めできる映画です。

私は観ていないけど映画ファンの間で話題になり続けているのが、デ・ニーロを喰った『フローレス』での演技だそうです。

今回のオスカー受賞対象作『カポーテ』も楽しみであります。


涼風

WBCの重要性

2006年03月14日 | スポーツ
野球の世界大会が盛り上がっているそうです。誤審で日本がアメリカに負けたとか。

こうして続けていくと、大会の意義が認識されて、シーズン前ではなく、シーズン期間中に一ヶ月ぐらいリーグのオフを取って選手が万全の状態で挑めるような体制を整えたほうがいいのでしょう。

どこまでアメリカの人たちのプライドを刺激して、「やっぱり万全な準備をして世界一になろう」と思わせるかがアメリカ以外の国に課された使命です。そう考えると、選手を出し渋る日本のプロ野球チームの姿勢は、野球の発展を自分達で妨げている。もっとも、今回日本が健闘すれば、それも改められて「完全な代表チームを作ろう」という雰囲気が出るかもしれない。

代表チームができるといい点は、各チームの選手が「自分は代表に価する選手か」と考えるようになること。とりあえず打てるけど走塁判断の鈍い選手、守備の下手な選手は絶対に代表チームには選ばれない。そんな選手は国際大会では通用しないからです。

すると野球の質もスピード重視になり、リーグの試合も面白くなると思います。


涼風

『風と共に去りぬ』

2006年03月12日 | 映画・ドラマ
昨日の夜にテレビで『風と共に去りぬ』をやっていました。4時間完全放映ということでしたが、内容が陰惨なのでとても観る気にはなれませんでした。

気晴らしにチラチラと観たけれど、おそらく20年ぶりくらいに観てビビアン・リーのきれいさにびっくり。また強烈な個性を放っていて演技も上手く、オスカーを獲ったのも当然と思える演技。

わがままさと臆病さと力強さを同時に演じて、細身の身体から強烈なパワーを放っていました。

この映画の作成時、彼女は25、26歳。今のハリウッドなら小娘として簡単にはスター扱いしてもらえない年齢です。ナタリー・ポートマンやキーラ・ナイトレイにしても、まだまだ「若手」という感じで、「スター」の貫禄はないと思う。それに比べればビビアン・リーの存在感は圧倒的です。

でも、この映画はやっぱり全部見通す気にはなれない。こんなに不幸の上に不幸を塗りたくなくてもいいと思うのだけど。不幸でなければ芸術ではないというような観念がまだ人類には残っているのかな。セックスをたくさん描かなければ文学とみなされない傾向と同じように。


涼風

メル・アド

2006年03月11日 | 日記
アダルトメールが一日20通ぐらい来ます。どれだけブロックリストに加えても新しい送信元アドレスで来るのでブロックするのは無理みたい。

私のメールアドレスはヤフーとホットメール。そのヤフーの方に次々と来ます。ウェブ上のフリーメールではとりあえず「迷惑メール」に分類されるけど、それをOutlook Expressに落とすときに「受信フォルダ」に来てしまう。おかげでOutlookは怖くて開くことができません。

この先一生アダルトメールが来るのかと思うとウンザリ。

でも、これからはメールアドレスというのは一生ついてまわるものなんですね。もちろん変更しようと思えばできるけれど。子供の誕生祝に、「ホラ、これがお前のメール・アドレスだ」ってプレゼントする親もいるんじゃないだろうか。

もっともメル・アドだって電話と同じで毎月使用料を払わなければ使えない。生活苦の人はメル・アドを失う危険もあります。メル・アドを失うというのは、電話番号以上にショックなことかもしれない。それだけパーソナルな特性を帯びたもので、「自分のもの」という所属感が強いからです。


ところで、僕はヤフーBBのメルアドを変更したいのだけれど、そのときはどれだけの人に伝えればいいのだろう?もう長い間連絡をとっていない人にも知らせるべきだろうか?とかいろいろと厄介な思案事項なのです。

どうして変えたいかというと、ヤフーBBのアドレスを使っている限りは、なんだかずっとヤフーをプロバイダとして契約していなければならないような束縛感があるから。まぁ、一番安いのはヤフーだから、今のままでもいいのですが。

涼風

『アカデミー賞―オスカーをめぐる26のエピソード』川本三郎(著)

2006年03月11日 | Book
『アカデミー賞―オスカーをめぐる26のエピソード』という本を読みました。

アカデミー賞をめぐる様々なエピソードを紹介。一つ一つのエピソードを深く突っ込んでいないけど、軽く読み流す分にはいい本でした。

すべての話に共通するのは、いかに俳優達がアカデミー賞を欲しているかということ。多くの俳優がアカデミー賞が欲しくて、そのために奮闘して映画を作っている姿が透けて見えてきます。

そうした競争心を多くの俳優が持つため、そこから他人から見れば滑稽な嫉妬や憎しみなどがアカデミー賞をめぐって生じます。アカデミー賞をめぐって俳優同士がいかにいがみ合うことになるか。

そういう意味では、面白い本でもあり悲しい本。どれほど俳優達が懸命にアカデミー賞を獲ろうとしても、昔の俳優はとうに今の人たちに忘れ去られている。当時どれほどスポットライトが当たっていても、今ではまったく別の俳優がレッドカーペットを歩いている。

中にはアカデミー賞自体に反発する俳優(キャサリン・ヘップバーン、ジョージ・C・スコット、マーロン・ブランド、ダスティン・ホフマン…)がいるのも頷けてくる、そんな感じです。

当たり前の話だけど、アカデミー賞を獲ったからと言っていい映画とは限らないし、獲らなくてもいい映画はおそらく無数にある。そんなことは理性的に考えれば当たり前の話なのに、それでも一流の俳優達が内心では喉から手が出るほどアカデミー賞が欲しくなる。そんな魔力がオスカーにはあるみたい。

でも、例えば20年前や30年前でもアカデミー賞の写真を見せられると、もちろんその人たちの多くは今では活躍していないし、スポットライトが当たることもない。どんな栄光も一時的なものだし、作品自体ではなく賞の獲得自体に血道をあげるのは、あとから考えれば馬鹿げたことに思えてくる。でも馬鹿げていても名誉を求めるのは、一流の俳優でも同じだと分かります。

日本のアカデミー賞は映画ファンの間でつねにバカにされているけれど、それはそれでいいのかもしれない。

でも、日本のアカデミー賞にもう少し権威がつけば、映画人ももっとやる気が出るかもしれない。

やっぱりアカデミー賞はあったほうがいいのかな。


涼風

参考:「アカデミー賞―オスカーをめぐる26のエピソード」『映画瓦版の読書日誌』

『インディでいこう!』ムギ(著)

2006年03月10日 | Book
『インディでいこう!』という本を読みました。著者はムギ(勝間 和代)さん。

この本を知ったきっかけは著者のブログ『日々の生活から起きていることを観察しよう!! by ムギ』『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』(他にもあります)を私がよく読ませてもらっているからです。

ブログの普及で多くのビジネスマンが経済系のブログを解説しているのでしょうが、彼女の文章は分かりやすくテーマも身近なものが多いし、かつ事象のポイントを上手くついているのが印象的です。

著者の肩書きは外資系のVice Presidentとなっていて、こういう普段はまず知り合えないだろうなという人の考えていることが分かるというのも、ネットの、というよりブログのおかげですね。

この本の内容は、ビジネス社会と人生で女性が生きていく選択肢の一つを提供するというもの。それは仕事にもパートナーにも実家にも依存せず、自然体で楽しく人生を生きていきましょう、という感じです。著者はそれを“インディ”と呼んでいます。

女性がインディであることを示すメルクマールとして著者が挙げる条件とは、

・年収が600万円以上

・友達に自慢できるパートナーがいる

・歳をとるほど素敵になっていく

です。

年収が600万円以上

これは、女性が男性や実家に依存せずに、しかし都内で部屋を借りて育児もできるために必要という観点からはじき出された金額だそうです。

女性で600万という数字は、女性全体の年収の上位一割に入るのですが、著者はこの金額は30代前半であれば誰でも努力次第で手が届く金額ということです。

面白いのは、仕事選びの一つとして、女性を生かしてくれそうな職場を選ぶように進めていること。土木や大企業などでは女性を補助的な役割としか見なさない。しかし中小企業や化粧品メーカーなどでは女性も戦力と見なすと指摘されています。

現実に企業には書類の整理やコピーといった補助的な仕事が必要でどうしても女性にそれが押し付けられるという現実があるそうですが、その圧力をかわすためにも、まず女性を戦力と見なす場を選びましょうということです。


友達に自慢できるパートナーがいる

これは付き合う男で女性というのは変わるから。一緒にいる時間の長い相手ほど影響を受けるのは当然ということです。

面白いのは、インディである女性の付き合う相手としてふさわしいのは、年収が1000万円以上あること(これは男性の上位一割に相当)。それも一杯一杯ではなく、これからも伸びていく余地がありそうな男性。

これは、男性が女性より年収が低いとどうしても男性が萎縮してしまい(ふーん、そうなんだ)、結局分かれるという現実を著者がたくさん見てきたから。

ただ、もちろん年収があればいいのではなく、年収を自慢するような男でもなく、インディである女性の価値を認められること。

著者は、一度どこかでキャリアで挫折して、そこから違う分野でまた復活してきたような男性がいいと述べています。

要するに、ヘンにいばったりせずに自然体で周りの人と付き合えて、同時に自分の長所をうまく仕事に結び付けて成功している、そんな男性ですね。

歳をとるほど素敵になっていく

これが著者がもっとも訴えたかったメッセージかもしれません。著者は“インディ”な女性の反対として“ウェンディ”を挙げています。

ウェンディな女性とは

キャリア・年収をアップさせようという意欲がない

アンチエイジング・美容に大金をかけている

実家や男性に経済的に依存。年収一千万の男を見つけて寿退社するのが理想。

などなど。

このウェンディな女性は、章ごとの扉に絵が描かれていて、なんだかリアル。

昨日も電車に乗っていたら、明らかに30近くからそれ以上の年齢に見えて、どれだけ化粧で顔を塗りたくっても顔から皺が浮き出ていて、しかし服装は20前後のような女性をみかけて、ちょっと痛々しかったです。

しかし街を歩くと、こういうウェンディな女性というのは年齢を問わずたくさんいるのが分かります。“自分を高めよう”という意欲もなく(そう見える)、ただひたすら見た目にお金をかけてそうな女性。

もちろん、世の中には、“ウェンディ”な男もいるし、「ニート」の増加でそういう男は増えているのでしょう。

著者は、歳をとるほどきれいになっていくために、・愚痴を言わない、・身なりはきれいにこざっぱりと、・目の前の仕事に真剣に打ち込む、など色々なアドバイスをしています。

歳をとるほどきれいになっていくことと関係していたかは忘れたけれども、著者が強調していることの一つは、普通の会社では(いまだに)女性をビジネス上で指導していく雰囲気がないこと。

もちろん研修などオフィシャルなトレーニングはあるのでしょうが、キャリアアップの考え方やビジネスの現場での仕事のコツの伝授など、細かいけどとても重要なことを、インフォーマルな形で上司が部下に教えていく雰囲気が今でも日本の会社にはないそうです(著者は、そのことを教えてくれる本として『母が教えてくれなかったゲーム』という本を挙げています)。

著者がこの本を書いたのも、そうした細かな・しかし重要なことをビジネス・ウーマンに伝えようとしたのでしょう。いまだに働く女性がそんな悩みを抱えていることに少し私は驚きました。

以前わたしはあるセミナー会社の勉強会などに出て、そこで多くの働く女性とお話しすることができたのですが、今から思うとそういうキャリア上の悩みとかまでは話しませんでした。

わたしから見れば女性でもちゃんとした仕事に就き自立している彼女たちは立派に見えましたが、それでも未だに会社での差別は日本でも根強いのでしょう。

最近新聞で、50代の女性で銀行で派遣で働いている人の記事がありました。彼女は正社員と同じように勤務しながら自給は880円。

企業からしてみれば「補助的な業務には気軽な女性がぴったり」と考えているのでしょう。しかし現実としてその補助的な業務が企業に必要な以上、それに就く人にもっと多くの金を払ってもいいように思うのですが。


この本は、男性や周りに依存するのでもなく、かつバリバリのキャリアウーマンとして男性に同化していくのでもない、「第三の道」を提示したいのだと述べています。

もちろん専業主婦でも幸せに暮らしている人もいると思いますが、多くの働きたい女性・自立したい女性が、フェミニズムの流行が過ぎ去った今でも、こういう本を求めているということは、男性中心のビジネス社会で女性が男性中心文化を相対化しながら独自の行き方を模索するプロセスはまだまだ始まったばかりなのだということが分かります。

単なるバリバリのキャリアウーマンでもない、という道を模索しているところに、この本の独自性はあるのかもしれません。

しかし、まだそれがどういうものかは、この本を読んだだけではよく分かりません。あるいは、著者はその第三の道の人生を現実に生きているのかもしれませんが、まだそれは文章にしていないのか、あるいは私が読み取っていないのかもしれません。

ただ、著者が理想の生き方として、ビジネス上のアドバイスをしながら、同時にいいパートナーを見つけること、歳をとるほどきれいになっていくことを強調しているのは、この本が単なるキャリアアップを薦めているのではないことを示しています。そこに、仕事をあくまで人生の一部としてとらえて、仕事も人生を高めるものの一つとしてとらえている姿勢が現れています。

ビジネス中心文化を相対化する視点があるとすれば、そういう点だと思います。


参考 『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』 勝間和代(著)

   『母が教えてくれなかったゲーム』 ベティ・L. ハラガン (著)

   『会社でチャンスをつかむ人が実行している本当のルール』 福沢 恵子 ・勝間 和代 (著))

   『猪口さん、なぜ少子化が問題なのですか?』(猪口邦子・勝間和代著)

   勉強と学校

朝はきれいな音楽

2006年03月09日 | Music
朝起きて朝食を食べるときには、最近はモーツァルトやバッハを聴きます。いいクラシックの音楽は、聴いていると脳がきれいに整理されていくような感覚を覚えます。

昨日の朝に聞いていたのはバッハのフルートソナタ31・32・20・13でした。とてもいい音楽です。

バッハやモーツァルトで聴いているCDは、たぶん全部あわせても10枚を超すぐらい。もっと彼らの音楽をたくさん聴きたい。ただ、彼らの音楽ってCD1枚でも長~く楽しめるので、なかなか次のCDへと手を伸ばす必要がありません。嬉しいやらもどかしいやら。


涼風