権威(親・教師・先輩…)に私(たち)が反発するとき、それは大体「彼(彼女)には誠実さが足りない」「彼(彼女)は間違っている」という言い方をします。要するに彼らの人間的成長度を批判し、彼らがそれほど立派な人間ではないことを批判します。
面白いのは、私(たち)がそういう人間的成長度の物差しを持てるようになったのは、そういう権威の人たちが私たちを育てようと色々な物差しを私たちに与えようとしたから。
私たちに権威の人たちが与えようとした人間的成長の物差しを全面的には私たちは受けれいません。一部を受け入れつつも、権威に対して反発し、権威の人たちが十分でないことを私たちは批判します。
でも、そうして私たちが権威の人たちを批判できるのも、人間的成長ということ自体は正しいことであると私たちが認識しているからです。人間的成長の内容については人それぞれで違いはあっても、私たちは「人間は成長し、正しくあらねばならない」という前提だけはすべての人が受け入れています。そしてそういう前提を私たちに教えてくれたのは権威の人たちだったりします。
私たちが権威を批判できるのも、権威が私たちを育てようとしたからだと言えます。
「○○が正しい」と権威に教えられるとき、私たちはその「○○」の内容には反発します。しかし何が「正しい」かを探すという態度は、権威が私たちに示して教えてくれたものです。
また、権威が「○○が正しい」と私たちに言ってくれなくては、「いや△△の方が正しい」と私たちは考えることができません。○○のことを知らなければ、△△の存在を知ることができないのですから。
このことは、権威の存在が私たちの生活にとっていかに重要を示しています。
涼風