あまり表だって書いたことはないのですが、昔からずっと中島みゆきの詞と曲が好きでした。
中島みゆきがデビューしたのが1975年。その年に高校3年生だった私は、深夜放送を聞きながらの「ながら勉強」をすることが多く、深夜0時代の 『コッキーポップ』 や午前1時からの『オールナイトニッポン』をよく聞いていました。その 『コッキーポップ』 の中で、流れてきたのが中島みゆきのデビュー曲 『アザミ嬢のララバイ』 。一瞬でその曲の世界に引き込まれ、没頭してしまったのを覚えています。
それ以来の中島みゆきファンですが、特に大人になってからは、実はそれほど聴いているわけではありません。彼女の曲を聴き始めると、その世界に没頭してしまい、こちらの(現実的・実務的な)世界に戻って来にくくなるので、初期の頃を除いては、通常ほとんど聴いていないという方が正しいでしょう。
それでも「中島みゆきを聴いてもよい」と自分に許す場面があることがあります。それは長距離移動などで時間をまとめて自由にできる場合です。あるいは時間を有効に利用することのできない、不自由を強いられている時間と言うべきかもしれません。
私は揺れているところで映像や文字を見ると気持ちが悪くなることがあるので、それはしないようにしています。1~2時間なら何も見なくても、何も聞かなくても、授業のことや仕事のことや、あれこれ考え事をしていれば過ぎてしまうので、ふだんもほとんどそうしています。しかし、それが8時間とか10時間以上とかになると、私もその時間を何かに使いたいと思うようになります。そういうときだけが、愛用のウォークマンを使って、私が自分に中島みゆきの曲を聞くことを許す時間です。
そんなわけで、ここ数日、思うままに中島みゆきの曲を聴きました。暗い曲が多いので、思う存分聴けて幸せなのか、それともどっぷりと不幸せな気持ちになったのか、自分でもよくわかりませんが、とにかく本当に数年ぶりに、まとまって中島みゆきの曲を聴く時間を持つことができました。
中島みゆきについては『恨み節』とか『暗い』と言う評価がふりますが、最近の中島みゆきは『サウンド』を前面に押し出していると思います。この傾向は何時から始まったのかと言えばそれは改めて言うまでもなく1988(昭和63)年に発表(発売)されたCDアルバムの『グッバイガール』からだと私は思います。宇佐美先生も知っての通りこの『グッバイガール』と言うCDアルバムから彼女(中島みゆき)のプロデューサーに『瀬尾一三』が起用されたからに他なりません。特にこの『グッバイガール』と言うCDアルバムの一番最後の9曲目に収録された『吹雪』と言う曲は『この世』のものとは思えないぐらいに『幻想的なサウンド』だと私は思っています。
中島みゆきと言えば何と言ってもその『歌詞』に最大の特色があり歌詞と『サウンド面』をどのようにして両立させるか、が最大の課題でしたが、この『グッバイガール』と言うアルバムから起用されたプロデューサーの『瀬尾一三』はそれを物の見事にやってのけたのです。私(牢屋壮一)はこの『瀬尾一三』と言う人物のアレンジャー(編曲家)、そしてプロデューサーとしての能力と言うか手腕を高く評価しています。
以上です。
今回紹介するのはこの記事本文で取り上げらている『中島みゆき』の『デビュー曲』です。
世の中の多くの人は『中島みゆき』のデビュー曲は余りにも有名なあの『時代』と言う曲だと思っている人がいるかもしません。
しかしそれはとんでもない『誤解』です。中島みゆきの本当のデビュー曲はこの『記事本文』にも書かれている通り『アザミ嬢のララバイ』と言う曲です。私(牢屋壮一)の手元にそのデビュー曲である『アザミ嬢のララバイ』のシングル盤のジャケットがあります。私が持っているこの『ジャケット』はパッチング(MSパウチ)加工したものですが、ジャケットの裏面には『中島みゆきプロフィール』が書かれています。
因みに蛇足ながらこの『中島みゆき』のデビュー曲である『アザミ嬢のララバイ』のアナログレコードの45回転のシングル盤の発売当時の価格(定価)は『500円』でありレコード記号と番号は『AV69』でした。
今回のコメントは以上です(牢屋壮一)。
この『アレンジャー(編曲家)御三家』と言うのは日本の歌謡界が誇る3人のアレンジャー(編曲家)の事です。
その内の2人は萩田光雄と船山基紀である事は言うまでもありません。
残りの1人はこの記事本文で取り上げられている『中島みゆき』の音楽プロデューサーを1988(昭和63)年から30年以上に亘って務めている『瀬尾一三』です。この『瀬尾一三』に関しては私(牢屋壮一)もこの記事本文のコメント欄に書きましたが、純粋に私(牢屋壮一)個人の主観的な見方としては非常に長期間に亘って萩田光雄と船山基紀の陰に隠れてしまいその存在が霞んでいたような印象を否定する事ができません。その『瀬尾一三』が一気に表舞台に躍り出たのは何と言っても『中島みゆき』の音楽プロデューサーを務めるようになったからに他ならないと私(牢屋壮一)は思います。
まだまだ萩田光雄、船山基紀、瀬尾一三の『アレンジャー御三家』については書きたい事は山ほどありますが、その都度々々、書いて行きたいと思います。
今回のコメントは以上です(牢屋壮一より)。
知っての通り『瀬尾一三』と言う人はフォーク出身のアレンジャーであり音楽プロデューサーです。瀬尾一三が音楽の世界に入ったのは1969(昭和44)年であり2019(平成31)年は瀬尾一三の音楽生活50周年の年でした。
これは少し持ち上げた表現かもしれませんが、私(牢屋壮一)は瀬尾一三と言う人は『日本のフォークの大功労者』だと思っています。
特に『フォークブーム』が遠い過去の存在となった現在では日本のポピュラー音楽の中にフォークと言うジャンルが存在するのは瀬尾一三の存在あればこそであり、もしも日本のポピュラー音楽界に瀬尾一三と言うアレンジャーそして音楽プロデューサーがいないと仮定したならば『フォークブーム』の終焉(終わり)と共に日本のポピュラー音楽のジャンルから『フォーク』と言うジャンルが消滅していたであろう、と私(牢屋壮一)は常日頃から思っています。
私(牢屋壮一)に言わせればフォークブームが遠い過去のものになった現在では『瀬尾一三なくしてフォークなし』と言っても決して過言ではないと言うか言い過ぎではないと考えています。
今回のコメントは以上です(牢屋壮一より)。
それは何かと言うと瀬尾一三の50年間に亘る音楽生活について書かれた初めての本である『音楽と契約した男 瀬尾一三』の本の帯に書かれている言葉です。
この『音楽と契約した男 瀬尾一三』と言う本の帯には次のような言葉が書かれています(因みに蛇足ながら本の帯の事を出版業界用語で『腰巻』と言う事は宇佐美先生も御存じだと思います)。
『音楽を作り続けられるなら、それ以上は何も望まないと、誓おう』
繰り返しになりますが、この『音楽を作り続けられるなら、それ以上は何も望まないと、誓おう』と言う言葉がこの『音楽と契約した男 瀬尾一三』と言う本の帯に書かれている言葉です。この瀬尾一三と言う人物についてはこれからも私(牢屋壮一)は書くつもりです。
今回のコメントは以上です(牢屋壮一より)。