考えるための道具箱

Thinking tool box

◎自覚的なコミュニケーション。

2007-11-18 11:39:07 | ◎業
といった話は何回もしているかと思ったけれど、そうでもないかもしれないので。
これをいっちゃうと元も子もないかもしれないが、他者を過信してはならない。話したことはちゃんとわかってもらえているよね、と甘えてはならない。人の琴線を自分の琴線と同じと考えてはならない。他者は自分とは違うということに対して、徹底して畏怖をもたなければならない。だから、基本的には、コミュニケーションはできないものだ、と思っておくぐらいの構えが必要だ。どれだけ上手くいっているようにみえても、気づかない間にワームホールは生まれている。

しかし、現実世界においては、それでもコミュニケーションしなければならない。そのことを恐れるわけにはいかないし、あきらめてもいけない。いわゆる利害の発生しない日常的なコミュニケーションであれば、あまり慎重に考える必要はないだろう。そういった状況でのコミュニケーション問題は、さらなるコミュニケーションにより、解決に近いところまでにじり寄ることはできる。深慮が必要なのは、当然だけれど、そこで行われるコミュニケーションが、利益を生み出したり、逆に多大なる損失を発生させる可能性がある場合だ。いうまでもなく、おもにビジネスでのコミュニケーションということになる。

そこでは、自分の素のままで行うコミュニケーションは得策ではないばかりか、きわめてリスキーだ。だから、あえてふだんの自分とは違うコミュニケーションをとることに自覚的にならなければならない。これは確かに難しいけれど、あるひとつの方法を選ぶことで、ずいぶんハードルは低くなる。その方法とは、誰かが書いたシナリオにそったロールを役者としてプレイングすることだ。そんなことは、果たして可能なのか?上手くできるのか?と思うかもしれない。しかし、考えてみよう。家でリラックスしている自分とオフィスで執務している自分が同じ心持ちだという人はいないだろう。友人や恋人と話す電話と、会社で受ける電話の話し方が一緒だという人もいないだろう。そこに差があることに自覚的になり、その差を少しだけ拡げてみる、少しは演出も加えながら。そう考えれば、なんとなく上手くいきそうな気がしないだろうか。

「口下手なわたしが年間50台売りました」なんて言っている名物営業マンも、きっとこの方法を自覚的に遂行しているのではないんじゃないだろうか。かく言う、わたし自身も、素の状態では、まったくしゃべらない人間だ。むしろ話たくないし、1年間ぐらい誰かと会話をしなくてもきっと平気だと思う。そんなことだから、テンションの張りが弱いときのコミュニケーションはかなりもうメタメタだ。いや、そんなことはどうでもいい。こういったロールをうまくプレイングするスキルを身につけることも大切なのだけれど、より入念に考えなければならないのは周到に計算されたシナリオだ。先ほど「誰かが書いたシナリオ」と意味ありげに書いた。もちろん、書くのは自分なんだけれど、そこには客観的な視点が必要だし、ふだんの緩い自分からは想像もできない行動を描く必要があるため、自分とは違う「誰か」と示唆したわけだ。むしろ、俺はコミュニケーション下手です、と(それが事実かどうかは別として)感じている人なら、ふだんの言動の逆張りで書くくらいがちょうどいいかもしれない。
当然だけれど、シナリオは状況適応的でなければならないため、完璧なライティングのノウハウなどはない。しかし、コミュニケーションによる惨事をおこさないためにいくつかの基本的なコードのようなものがある。10時間たっても解決の目処が立たないこの問題は、あのとき3秒配慮しておけばなんとかなったかもしれない、といった類の惨事をふせぐためのコードだ。

【1】希望的観測を描かない。
むしろ、最悪の状況を徹底的にイメージし、それを乗り越えるためのシナリオを書いてみる。相手は「こう考えてくれるだろう」「まさかここまでのことは言わないだろうとか」といった好意はないと思ったほうがいいし、「メールを送ってんだからそれなりの善処をしてくれているだろう」「便りがないのはよい報せ」といった根拠のない仮定にとらわれるのは賢いとはいえない。直感的に「まずいな」と思ったことは、ほぼ確実に「まずく」発展していく。そこまで断定的でなくても、少しでも違和感をもったなら、「まずさが現実となる場合」の対応策をシナリオに組み込んでおくべきだ。

【2】見切るな。ひとりで閉じるな。
「これだけ言っておいたのだから、後はまかせて大丈夫だろう!」「メールどおりに対応しておけばいいんだな。2つの意味にとれるけれど、文脈からみてAだな。きっと」……もう、気づいているかもしれないが、これらの話を終わらせているのは、「あなた」だ。しかも、すべて話の途中だ。開いたものは閉じるまで見届ける必要はあるし、最後は、双方が合意のもとで閉じなければならない。閉じることには多大な責務が発生していると考えれば、何かを賭す覚悟でもない限り、そうやすやすとひとりでは閉じられないはずだ。シナリオには正しいコーダが必要だ。

【3】相手のシナリオも描く。
他者はわたしとは違う考え方をもつ。ここまでは正解だ。陥りがちなのは、「他者の考え方=わたしとは違う考え方」と他者をひとくくりとして錯覚してしまうことだ。けっして他者はひとつ(ひとり)ではない。言うまでもなく、10人いれば10人の考え方・感覚・ビヘイビアが存在する。たいへんだけれど、それぞれの人が、ある事象に反応して描くであろうシナリオを、個別に徹底的にイメージすることが、ものごとを正しくすすめていくことの鍵となる。彼ならどう考えるか。それをふまえた上で自分ならどう考えるのか。ふたつのシナリオをからませながら、統合的で最適な脚本を描くことに腐心してみる。しかし、これはなにも、自分の存在や主張を無にするということではない。シナリオを弁証法的に創っていくと理解したい。

【4】最後は正直。
謝罪コミュニケーションのシナリオは高度だ。損失を最小限におさえたいという引力が働くため、あらゆる繕いの言葉が用意される。しかし、繕いの言葉は、また別の繕いの言葉を必要とする。これはもう慣用的な禁忌だし、ごくふつうに考えて、そんな繕いだらけのシナリオを創っていると、微細な辻褄あわせにだんだんイライラしてくる。おれはいったい何やってんだと、すべてを投げ出したくなる。これは、身体が正しく反応しているということだ。ただ正直にありのままを伝える。「正直に言っているのだから酌量を」なんて小ざかしいことも考えずに誠実に言葉を積み上げていく。ひょっとしたら、ここだけは、「謝りたい」と思う、素の自分でいいかもしれない。結果として、確かに損失を蒙るかもしれない。正直な行動が評価され将来的にはプラスに転じるなんて、少しは期待してみたことさえ叶わないかもしれない。しかし、少なくとも「あいつはウソをつく」とは思われない。「いい訳がましいやつ」とも思われない。そう思われさえしなければ、いつかどこかで挽回はできる。

【5】話そう。
もはや言うまでもない。話したって伝わらないのはわかっている。しかし、それでもわたしたちがよりどころにしなければならないのは肉声だ。ここまで、他人を信じてはならないといった絶望的なことを書き連ねてきたが、肉声には一縷の希望がある。めんどうがらずに2秒でも3秒でも話そう。「よろしく」と言い、「了解しました」という反応をえるだけでも、メールと対話では機能のもつ意味がまったく違ってくる。話せば、なにかがうまれてくる確率が高くなる。もちろん、良いことばかりとは限らない。しかし、悪い話だって、それが早い段階で聞けたのなら、打ち手はやまほど考えられる。そういった意味でも、肉声は絶対的に重要だ。どうせ自分とは違うシナリオなんだ。くどいくらい饒舌な人物を描いたっていいじゃないか。

こんなふうなコードで、一度、シナリオを書いてみる。そうすれば、いままで見えなかったコミュニケーション上の問題点が浮き彫りにされることだってあるだろう。じつはこの問題点を把握できる、ということがいちばん大切なのかもしれない。シナリオどおりにうまくロールを演じきれなくても、いったい何が問題なのかを正しく理解してさえすればアドリブがきく。

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