考えるための道具箱

Thinking tool box

◎『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』

2008-01-07 23:02:32 | ◎読
年末から年始にかけて身体の中の水がおおむね出つくして、それと一緒になんだか、これまでいろいろ考えてきたり、なんとかためてきた知能のようなもすべて消失してしまった。まるで暗記パンを食べすぎて試験前日におなかをこわしてしまったのび太のようだ。

そんな素で無垢な状態で『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』なんて毒を一気読みしたものだから、完全にあてられてしまった。

そもそもTWIMとの出会いは、連載当時99年ごろに遡る。ちょうど東京で一人暮らしを始めたときで、会社からの帰り夜遅く自宅の近所のファミリーマートに立ち寄るのが日課となっていた。そこで毎週水曜日は早い売りの「ヤングサンデー」を立ち読み。ふだんなら、マンガ雑誌を立ち読みすることなんてなく、我慢してためて単行本を買う、というのがマンガに対する立ち位置だったのだが、『殺し屋1』だけは、どうも自分で買う気になれず、だけどストーリーだけは気になって覗いていたのだ。そのとき、もうひとつ気になってサッとだけ目を通していたこの世界への呪詛がTWIMだった。

そもそも、イチと同じように、仕事で疲れた一日の最後に新井英樹はキツいものがある(と当時は感じていた)。明日への活力を充填しなければならない深夜になにも好き好んでネガティブで観念的な言説にふれる必要なんてない。だから、TWIMはほんとにチラリとしか見ていなかった。そのチラリとみた絵が、あるときは凄惨な殺戮の場であったり、あるときは得体のしれない怪獣であったりして、1回の連載を読むだけでは、全体におけるその1号に描かれた狂気の位置づけはさっぱりわからないし、たまたま目にした内容が、この間みたものとまるっきり違っているものだから、あるとき、ついていくのをいっさいあきらめてしまった。

その後、マンガの世界という限定つきだが、TWIMはなにかと話題にはなっていたのだけれど、単行本を見かけることもなく、執心はなくなっていた。ただし、『キーチ!!』を読むたびに、「ああ、あれなあ」とは思い出してはいて、そんな程度だから、2006年に『真説…』が出たことも全く知らず、昨年の11月ごろに、青山ブックセンターの5巻平積みを、不意に見かけたときには「なんと新刊!」と小躍りするような無知蒙昧な人であった。

しかし、この季節はずれの平積みを見かけたのはABCだけで、その後、いくつかの書店をまわってみても、またヴィレッジ・ヴァンガードでも発見できず、ヴィレッジ・ヴァンガードでは、これも完全版『漂流教室』の誘惑に負けそうになるが、なんとかこらえて、でも山本直樹の『RED』には抗えず購って、これも耐力と前哨戦として読んでいるうちに(『RED』の話はまたいつか)、ようやく梅田のマンガ専門の書店にて、わかりにくい棚に眠っているTWIMを大人買い的に確保した次第である。

なぜ、もって回って、TWIMの思い出話のような埋め草をダラダラと書いているのかというと、いわゆる批評のような本論を順序だてて書く気がないからである。TWIMについては、もはやなにをどう言っても、それはどこかで書かれたことのある話であるだろうし、ぜひ読んでください、といえるような根拠はどう考えても発見できない。だから、本腰をいれて「論」的なものを書かない限りは、「読みましたよ」という以外に書くべきことはないわけだ。ただ、それはそれでせっかく読んだのに残念なので、少しだけ素っ頓狂な見方をしてみる。

[1]まず、驚嘆するのは、描かれた夥しい「ファクト」である。ファクトに準拠するのはかなり面倒な作業である。まず仮説を立てて取材をして、その結果、仮説を修正して、そこから有効なものだけを選別して、工数を度外視してていねいになぞらなければならない。また、選別するということは収集した大半のファクトは捨てるということで、ある意味で非対称で報われることのない活動を根気強くていねいに繰り返さなければならない。そのことは『真説…』の本編に挿入された取材ノートを読めばよくわかる。まったくもってストイックな作業だ。にもかかわらず、読者の多くは、そのファクトをなんの気にもとめず読み飛ばしてしまう。たとえば「背景」であり、「距離感」のようなものにいちいち見惚れてはいられない。政治家や官僚の「箴言」以外の台詞にだってそうだろう。またTWINにおいては、そのファクトはリアリティにすら作用していない。そこに荒唐無稽が載せられている以上、もうその時点で本物らしさは達成できないし、新井らしい蛇足の多い書き込みすぎのせいもあって、むしろリアリティを損ねているともいえる。
では、ここまで緻密なファクトは無駄なのか?たんに新井の偏執と拘泥による自己満足に過ぎないのか?その答えは、TWIMの絵から、立つキャラクターをすべて取り除いたときにわかるような気がする。そこに見えるのは、もし何も起らなければ、何もないふつうの冴えない日本の風景だし、冴えないおっさんだ。このなにもない日常が、読む私たちをよりいっそうイヤな気分にさせる。それが、新井のファクトの常套的な成果だ。

[2]新井は、ペラい「物語」に怒っている。また、誰かが覇権にものを言わせて無理やりつくろうとしている偽の「物語」に怒っている。しかし、ペラい「物語」、偽の「物語」に対抗するために、結局は道徳的だがペラい偽の「物語」を創らざるをえない。そして大きな物語をつくろうとして物の見事に失敗した。こんな見方は正しいのだろうか。確かに大きな物語として見れば、壮大な「ホラ話」と照れを隠してみても、やはり力みすぎて失敗しているといわざるをえない。しかし、結果として評価されるべきなのは、TWIMがなにも大きな物語ではなく、けっしてDBに回収されることのない小さな物語のコンプレックスであるということである。何の気なしに、ほぼなんの脈絡もなしにひとコマだけ挿入される市井の人々にすべて物語がある。飛ばした台詞の間にも物語はある。そういったストーリーの直線を断ち切る読みがたさのバックグラウンドを想像せよ、と新井は言う。言う以上は、新井自身もある程度想像しているのだろう。こんなバカ正直なマンガは皆無といっていい。
「全体として神話」みたいな安易なレッテルから逃れてみたときに、少し違った評価軸を立てることができるかもしれない。そういった点では、自ら神話化に向ったエンディングはやはり残念といわざるを得ない。またごく普通の世界に戻る、程度のものでよかった。

[3]こういうのは小説では書けないなあ。と一瞬、かく乱されたけれど、撤回する。平野啓一郎の『決壊』があるじゃないか。分量にして、『真説…』の厚みを超えるまで、今の思想で、小さい物語の集積を書き続けることができれば、確実にTWIMを超える(残念ながらそろそろ終わるらしいが)。殺戮がテーマのひとつになっているだけに、席を並べざるを得ないが、それでも拮抗できるだろう。小説もまだまだ捨てたものではない。『新潮 2月号』掲載分もなんだか面白そうだ。
しかし、たとえ『決壊』がTWIMを超えたとしても、世の中が電報堂的なるものにまみれている以上は、その話題は局所的なものにとどまるに違いない。世界は複雑なのに安易になりすぎた。

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