考えるための道具箱

Thinking tool box

◎『グラン・トリノ』。

2009-05-07 17:36:27 | ◎目次
ハードディスクから『ミリオンダラー・ベイビー』を引っ張りだして見た。この連休は、なんとなく『グラン・トリノ』を見に行くことになるかもなあ、と思っていたので、その準備として。台詞なんかもちゃんと頭に入れておきたいと思って、まだ見ていない家族に勧めながら二回見た。モ・クシュラ!やっぱり、二度ともふたつの同じシーンで泣いた。『アルマゲドン』なんかとは違う種類の涙だ。

さらに、買うほどのことはないかと思って一度は忘れていた『ユリイカ』のイーストウッド特集が、どうしても読みたくなって、急いで本屋に行く。ひととおり目を通して、だいたいの課題がわかったような気になる。しかし、『グラン・トリノ』については、どれだけたくさんの言葉を読んでも、その実体をつかむことはできなかった。たしかに、評判どおり良い映画だというのはひしひしと伝わる。でも、読むほどに募る懐疑。それって、ひょっとして、ありがちな西部劇じゃないのか?



もしそれが『ミリオンダラー・ベイビー』のような結末だったとしたら、連休の後半に見るのはキツい。だから、少し腰が重かったのは事実。でも、前日によほど強く宣言していたのだろう。朝起きたら、奥さんの予定にしっかり組み込まれていた。観に行くんでしょ?といわれて、え、行くの?みたいな会話になって、あきれられたわけだけれど、ひっぱってくれたことに、おおいに深謝することになる。

確かに全体としてはありがちな西部劇、しかしそれはすべての西部劇を無効にしてしまう。ストーリーをダイジェストにまとめてしまうと、きわめてシンプルで予定調和の物語としか読み取れない。しかし、スクリーンのなかで展開されるドラマを二時間をかけてしっかり見たあと、そのやるせなさと痛撃により、人を途方に暮れさせてしまう物語。見終わった直後に動物的な反射で言えることや、過去のイーストウッドの作品を下敷きにしながらわけ知り顔で解説できることはいろいろとあるのだろうけれど、どう話したところで、この全体には追いつけない。『ミリオンダラー……』のようにあいまいではない光明が提示されてはいるとしても、またあきらかにエンターテイメント性は高いとしても、残るものの重さは同じ。わけのわからないままに流れのなかで打撃をくらって、でも平気だと思っていたら、おまえ鼻血でてるよ、と指摘される感じ。

粗忽で下世話だが思い浮かぶのは、ゴーイング・コンサーンという言葉。それでも人は生きていかなければならない。自分でちょっとした決心を何度も重ねつつ、生き続けなければならない。いや劇中では生き続けていないので、そういった解釈は正確ではないのかもしれないけれど、俺はもう歳だからいいんだが、おまえたちは、ギシギシと身体を動かしながら、うんざりしながらでも生きていけ、そうすれば、ちょっとした救いのようなものを感じることができるかもしれない。でもまあハードルは低くしておいたほうがいいよな、という通達を受けたような気もする。しかも、その通達は、救うのは国でも神でもなく、やっぱり人間であり、もっというとお前はお前にしか救えないんだよ、という冷厳も含む。もちろん、それは希望ともとれる。イーストウッドはニーチェになったのか……。

……とは書いてみたものの、うーん、なんか見当はずれだ。衰退したアメリカの総括?彼らが世界を受容していくための方法?銃社会への徹底したアンチテーゼ?善悪の無意味性……しかし、どう詰めていっても、解釈される直前に、するりとこの手を抜けていく。

<蓮實 繰り返しますが、われわれはイーストウッドは変態だからと思っていたのでこれまでは安心していたのですが、どうも変態以上の何かであるということで混乱し始めているわけです。ところが彼自身はこの混乱を止めるどころか、もっと混乱せよと煽っているかのようである。[ユリイカ5月号 イーストウッドは何度でも甦ってしまう……]>


って、言われてもなあ……。

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