わかりやすい文を書くのはとても大切である。とりわけ、ビジネスやマーケティング・コミュニケーションの現場において消費される文章。そこでは、論理構造と優先順位が要諦となり、とりあえず、工夫や美文といったスキルは不要なものとされる。正論。日経アソシエなんかが毎号のように特集している。
しかし、ここでも原理主義は危険だ。「わかりやすい言葉」は「つきなみな言葉」とは違う。「わかりやすい言葉」にもさまざまなバリエーションがある。そこをつきつめていかないと、あまりにも普通すぎて、そこに存在することすら気にもとめられないメッセージになってしまう。いつもと同じ。そんなヘッドラインやリードは悲しい。あるだけでノイズとなり、じつは総合的なリーダビリティを損ねていることにそろそろ気付かないといけない。
では、「つきなみではない、わかりやすい言葉」を書くために、どんなトレーニングをつめばよいのか。
まず大切なことは、精神論的で申しわけないけれど、「なんか言い換えてやろう」という意志をつねにもつことだ。少なくとも、「これまでと同じ言い方」、「もらった資料そのままの書き写し」は、かなり恥ずかしいことだと思わなければならない。ツールをつくっているのではなく、コンテンツをつくっているのだ、という自覚があれば、間違ってもそんなふうな文章はかけないはずだ。
この「なんか言い換えてやろう」という意志を空回りさせないために、つまり正しい方向に向けるためには、いくつかの学びの方法がある。
ひとつは、雑誌の記事のタイトル、ヘッドラインをパクることだ。パクる、なんて言うと聞こえが悪いので言い換えると、雑誌のタイトルやヘッドラインを収集し、型(テンプレート)を見出し、あてはめて活用すること。もちろん、ワード・ハンティングも必要だが、なによりまず型だ。「西洋美術を100%楽しむ方法」「言葉の力」「海外長篇小説のベスト100」「神田神保町の歩き方」「読書計画2008」「寝不足肌のための美肌メソッド」「お金の才能を鍛える」「居住空間学2008「文房具が教えてくれたこと」……。ちょっと部屋を見渡しただけでも使えそうな型がみつかる。雑誌はそのものが売れなければ死活問題なだけに書き手も旗を立てるのに必死だ。そこに多大なノウハウと言葉への思いがある。メジャーな雑誌のバックナンバー一覧をネットかなにかで調べて、特集や記事のヘッドラインをコピー保存しておくと結構使えるハックツールになる。
もちろん、書籍のタイトル・作品名についても同じようなことがいえる。小説や思想書にだってヒントはある。その場合は、たとえば『存在と時間』、『罪と罰』といった「と」一文字によるコントラストの妙のようなものに敏感になれるかどうかがポイントになる。
しかし、これはあくまでも「どう言うか」の問題であり、本質的な答えにはなっていない。そう、本質的に重要なのは「なにを言うか」だ。しかし、残念ながら「なにを言うか」は、ごくまれな場合をのぞいて、書き手本人からは生まれることはない(もちろん、ビジネス・コミュニケーションに限っての話)。
では、どこから生まれるのか。言うまでもなく「他者の言葉」である。マーケティング・コミュニケーションの場合、端的なのは、取材などで手に入れた、生活者・ユーザーの声ということになる。基本中の基本だ。たとえば、「その部屋をつくったことによって、家族が活き活きとコミュニケーションできるようになった」なんて文章は机上でも作ることができるが、「その部屋をつくったことによって、家全体のバランスがよくなった気がする」といったよう言葉は、そこで暮らしてみない限りはとうてい出てこない。これに肉付けをしていけば、決してエキセントリックではない工夫ある文章がうまれてくる。他社の言葉を使う、というのはそういうことだ。もちろん、開発者の言葉、販売員の言葉も、同じように重要なヒントとなる。ただし、彼らが発したすべての言葉を、なんの分別もなく過信して、まるで玉稿のように扱うのは禁物だ。「たいしたこと言ってないなあ」という判断力をたくさんの他者の言葉通じて学習していくしかない。
いずれにしても、言葉を収集するという習慣は必要だ。ということで、わたしはこれから、わかりにくい文章に対して抗議し、あんまり考えていない文章に対して逆上すると同時に、面白くない文章に対して怒髪で天をつくことにします。
しかし、ここでも原理主義は危険だ。「わかりやすい言葉」は「つきなみな言葉」とは違う。「わかりやすい言葉」にもさまざまなバリエーションがある。そこをつきつめていかないと、あまりにも普通すぎて、そこに存在することすら気にもとめられないメッセージになってしまう。いつもと同じ。そんなヘッドラインやリードは悲しい。あるだけでノイズとなり、じつは総合的なリーダビリティを損ねていることにそろそろ気付かないといけない。
では、「つきなみではない、わかりやすい言葉」を書くために、どんなトレーニングをつめばよいのか。
まず大切なことは、精神論的で申しわけないけれど、「なんか言い換えてやろう」という意志をつねにもつことだ。少なくとも、「これまでと同じ言い方」、「もらった資料そのままの書き写し」は、かなり恥ずかしいことだと思わなければならない。ツールをつくっているのではなく、コンテンツをつくっているのだ、という自覚があれば、間違ってもそんなふうな文章はかけないはずだ。
この「なんか言い換えてやろう」という意志を空回りさせないために、つまり正しい方向に向けるためには、いくつかの学びの方法がある。
ひとつは、雑誌の記事のタイトル、ヘッドラインをパクることだ。パクる、なんて言うと聞こえが悪いので言い換えると、雑誌のタイトルやヘッドラインを収集し、型(テンプレート)を見出し、あてはめて活用すること。もちろん、ワード・ハンティングも必要だが、なによりまず型だ。「西洋美術を100%楽しむ方法」「言葉の力」「海外長篇小説のベスト100」「神田神保町の歩き方」「読書計画2008」「寝不足肌のための美肌メソッド」「お金の才能を鍛える」「居住空間学2008「文房具が教えてくれたこと」……。ちょっと部屋を見渡しただけでも使えそうな型がみつかる。雑誌はそのものが売れなければ死活問題なだけに書き手も旗を立てるのに必死だ。そこに多大なノウハウと言葉への思いがある。メジャーな雑誌のバックナンバー一覧をネットかなにかで調べて、特集や記事のヘッドラインをコピー保存しておくと結構使えるハックツールになる。
もちろん、書籍のタイトル・作品名についても同じようなことがいえる。小説や思想書にだってヒントはある。その場合は、たとえば『存在と時間』、『罪と罰』といった「と」一文字によるコントラストの妙のようなものに敏感になれるかどうかがポイントになる。
しかし、これはあくまでも「どう言うか」の問題であり、本質的な答えにはなっていない。そう、本質的に重要なのは「なにを言うか」だ。しかし、残念ながら「なにを言うか」は、ごくまれな場合をのぞいて、書き手本人からは生まれることはない(もちろん、ビジネス・コミュニケーションに限っての話)。
では、どこから生まれるのか。言うまでもなく「他者の言葉」である。マーケティング・コミュニケーションの場合、端的なのは、取材などで手に入れた、生活者・ユーザーの声ということになる。基本中の基本だ。たとえば、「その部屋をつくったことによって、家族が活き活きとコミュニケーションできるようになった」なんて文章は机上でも作ることができるが、「その部屋をつくったことによって、家全体のバランスがよくなった気がする」といったよう言葉は、そこで暮らしてみない限りはとうてい出てこない。これに肉付けをしていけば、決してエキセントリックではない工夫ある文章がうまれてくる。他社の言葉を使う、というのはそういうことだ。もちろん、開発者の言葉、販売員の言葉も、同じように重要なヒントとなる。ただし、彼らが発したすべての言葉を、なんの分別もなく過信して、まるで玉稿のように扱うのは禁物だ。「たいしたこと言ってないなあ」という判断力をたくさんの他者の言葉通じて学習していくしかない。
いずれにしても、言葉を収集するという習慣は必要だ。ということで、わたしはこれから、わかりにくい文章に対して抗議し、あんまり考えていない文章に対して逆上すると同時に、面白くない文章に対して怒髪で天をつくことにします。
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