考えるための道具箱

Thinking tool box

静かなごくふつうの生活。

2006-06-25 14:37:23 | ◎読
舞台の裏はほんとうに静かなものだ。そこでの出来事は、だれかが注視し続けなければ、たとえ一瞬は人びとの共感と関心を得たとしても、めくるめく表舞台の関心ごとのなかで、かき消されてしまう。表舞台から語り継ぐことがなければ、相対的に虐げられていたこともいっさい認識されないまま歴史のなかに消えていく。

だからマイノリティを注視しよう、という話ではない。舞台の裏で割を食っている市井の人々の暮らしぶりを声高にうったえよう、という話でももちろんない。注視という形でとらえることのできるマイノリティや割を食っていると認識できる市井の人々は、まだ表舞台の演者であり、じつはその裏に本質的に静かなレイヤーがある。それはほんとうに静かなものである。

そこでは、あなたたちは「表舞台とは違う」こういった立場におかれている人である、だから将来的にはこういった暮らし方を送ることになる、といった正確な説明をしてくれる人は誰もいない。そもそも、自分の立場と暮らし方以外の立場と暮らし方があるといった認識がないため、万が一他の人が見止めることがあったとすればきわめて異質な世界であったとしても、当人たちはその差分を理解することができない。漸次的に、異質な立場と暮らしがわかりだしてきたとしてもそこにあるのは「こんなもんだろう」という盲目的な理解だけで、なんら驚きはない。だから妬みも嫉みもない。

意識的な声があがることもない。つまり物語も自覚的には企図されない。正確に言うなら、意図的に何かを欠落させた教育を受けてきた人間にとっては、誰かに話すべき物語というものがあるのかどうかもわからない。しかし、それが「人間である限り」無自覚・無意識のうちに物語は生成される。だから、そういった場合、彼らの物語はかなり繊細な注意を働かせねば聞き取ることができない。まったくもって静かな声である。では、こういった囁きを聞き分け、物語として紡ぐことができるはの誰か?カズオ・イシグロである。

『わたしを離さないで』で、大きな前提として重要なことは、カズオ・イシグロが、キャシー・Hをはじめとした、ファミリーネームが符号化された人々を、まず人間として理解しようとする立場にあることである。正直なところほんとうにそうなのかは、簡単に結論を出せるものではない。しかし、そこに「物語」の生成を認め、その静謐な囁きを一意専心に聞き取ろうとした丹念な作業において、カズオ・イシグロは、将来的に起こりえる可能性を孕む倫理的な問題の解決に対してきわめて有効なアイデアを起案した。
同時に過去において試みてきた「無意識のうちにあるアイデンティティ喪失と回復」というモチーフから、さらに難題である「アイデンティティという概念の喪失と発見」という領域に踏み込んだ。果たして、そのような回路をもつものたちを、最終的には人間として描くことができるのか。

カズオ・イシグロは、そこにある微差、つまりわれわれが感じるちょっとした違和を、丹精でかつ「細部まで抑制が利いた」言葉を積み重ねていくことで表現し、裏舞台としてのリアリティを立ち上げた。読み手は、そこにズレがあるようでないような奇妙な印象のなか、この物語を読み進めることになる。ほんとうに静かな語りのなかから、徐々に生まれてくるなにかの胎動を感じながら、最終的にはカズオ・イシグロの考え方に同意することになる。

読み進めるなかで、登場人物たちのおかれた立場は、おぼろげながらも明らかになってくる。しかし、決定的な解説がないためほんとうのところの確証はもてない。私たちとは少し違うという違和感についても確証はもてない。カズオ・イシグロはごく自然な書き方のなかで、まさに「抑制」を利かせながら、これらのわずかな隔たり、しかしながら決定的で重要な隔たりを埋め込んでいる。裏舞台の書き方としては、もうこれ以上はないと思えるほどの、小説技術であり、最高到達点ともいわれるような高い評価で称えられることになんの異存もない。すばらしい小説である。

しかし、それがゆえに、最後まで抑制を利かせるといった方法もとれたのではないか?と感じてしまうのは私だけだろうか。12章における種あかしは、依然として抑制の利いた静かな筆致では進められる。もし、この章がなければ、根源的な修正が必要になるかもしれないし、ここがあるから小説として成立するのだという考えはきっと主流だろう。しかし、これを書いているのがベルンハルト・シュリンクではなくカズオ・イシグロであると考えたとき、またそれまでの物語構造の制御にすばらしい完成度をみるとき、12章は、好奇心とは裏腹に逆に足前ではないか、と感じてしまう意見に少しは関心をもっていただけるかもしれない。
この私見は、基本的には物語を果てしなく続けてほしいといった願望からくるものであり、もちろん『わたしを離さないで』をなんら損ねるものではない。オール・タイム・ベストとしての100冊をさらに超えていく、場合によっては、その困難さにより可能性がそう高くはないかもしれない成功に期待している、ということかもしれない。

さて。ここまでは、きわめてストレートな読み方である。小説というものは、誰がどう読んでもよいという考え方に甘えさせてもらうとしたとき、もう一捻りした読み方もある。それは、この物語の主役である彼らが超越的属性をもつということである。その出自から、そして生と死への対峙の仕方から。崇められ、畏怖され、虐げられる彼らをどう解釈すればいいのか。しかし、これは、それほど簡単に答えのでる話ではない。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは (シン@偽哲学者)
2006-06-25 16:04:18
今日も勉強させてもらいました。

こういう読み方もあるのですね。

私は小説を読むときは先を予想するだけの

ごく表面的なものしか追ってない場合が多いので

今後は色んな意味でよく考えながら

読んでみたいと思います。
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>シンさま (urat2004)
2006-06-26 23:53:59
ぼく自身はごく普通の素人の本読みなので

基本的には読むという行為が、

楽しければよいと思っています。



そのときの楽しさの基準は、

こんな物語いままでなかった、

こんな人物いままでなかった、

というところにあり、

そういった状況にであった場合、

なぜこのような発想が生まれるにいたったのか、

という点を少しだけ深い読みしてみたい

という欲求がうまれるわけです。



その点では、じつは読み方は甘く

結局はなんの参考にもならないことも

多いと思われますが、まあそれも

ひとつの読み方とお許しいただければ

と思います。



ありがとうございました。
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