史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「江戸500藩全解剖」 河合敦著 朝日新書

2022年12月30日 | 書評

地方に行けば、その地方特有の文化や風習に出会うことができる。北陸トンネルを抜けると、突然福井弁の世界が待ち受けている。福井の人間にしてみれば、関西からやってきた私は「関西弁を使う変な奴」と思われたに違いない。ところが、学生時代に神戸に移って、神戸の人たちがちょっと癖のある関西弁を操ることに衝撃を受けた。一口に関西弁というが、大阪と京都と神戸ではまったく別の方言なのである。

県民性を取り上げたTV番組があとを絶たないのも、その淵源をたどっていくと江戸時代の藩にたどりつく。江戸時代、さして広くもない日本の中で(数え方によるが)最大500もの藩がかなり独立性高く併存していた。しかも、現代と違って人の流動性は低く、移動も制限されていたので、藩の独自性はまるで冷凍保存されたように長く維持された。

では、藩の歴史はそれぞれ全く独立したものだったかというと、不思議なことに申し合わせたように同時多発的に同じような歴史を刻んでいる。

江戸時代の三大改革といえば、享保・寛政・天保期を指すが、同じ時期、各藩でも改革が行われていた。結局のところ、幕府も藩もこの時期に経済的に行き詰まり、改革断行を余儀なくされたのである。

周知のとおり江戸時代は、商品経済が発達し商人の中には巨富を築いた者もいた。しかも、相も変わらず米納社会であったため藩の財政が行き詰ったのも当然のことといえる。

藩政改革といっても、倹約を徹底するとか、藩士の家禄を一律削減するとか、商人からの借金を踏み倒すといった類の対策ばかりである。現代的な発想でいえば、どうして商人に対して所得に応じて課税しないのだろうかと考えてしまうが、この時代商人に課税したという話はあまり聞かない。強いて近い例を挙げれば、商人から上納金を出させるとか、運上金、冥加金を課すというくらいのものである。

企業経営でいうと、もはやリストラが必要な状態だと思われるが、この時代は石高に応じて武力を常備する必要があり、大胆に人員削減することもできなかった。

改革の一環として藩校の設置が進んだ。もっとも古いものは寛文六年(1666)の岡山藩学といわれる。ただし、その後百年以上、他藩での藩校開設は進まず、設置率は大藩を中心に十%程度だった。

ところが寛政の改革がおこなわれた十八世紀末になると、幕府の昌平坂学問所を皮切りに各藩は競って藩校を開いた。寛政年間に続いて藩校開設のブームが到来したのが天保年間であった。

現代、文部科学省が作成した学習指導要領に則った教科書を用いて公立学校では教育が行われており、そのため全国で同質の教育を受けることができるようになっている。江戸時代は、教育に関しては各藩に一任されており、各藩では独自の教育が展開され、結果、独特の士風が形成された。子細にみれば、藩校の教育は各藩工夫を凝らし、ユニークなものであった。

ユニークな教育を実践した藩校として、水戸学の発信基地となった水戸弘道館、国学を導入した津和野藩の養老館、徂徠学を中心に据え、生徒の自主性を重んじた致道館などがある。

現代においても、秋田県の国際教養大学や大分県の立命館アジア太平洋大学などユニークな大学が生まれているが、既存の地方大学もその地方色を活かして、もっと独自性を追究したら良いかもしれない。

 

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