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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

加古川 Ⅱ

2019年05月18日 | 兵庫県
(山脇邸)
 今年のゴールデンウィークは、史上最長の十連休であった。人によっては、「長過ぎる」「時間を持て余す」などと批判的な意見もあるようだが、個人的には休みは長ければ長いほど大歓迎である。半年以上も前から、計画を練っていたが、この正月に「戊辰掃苔録」の竹さんから中国地方の旅行に誘われ、ご一緒することになった。金曜日、仕事を終えて東京駅に直行し、その日のうちに京都の実家に移動。初日は姫路周辺、二日目は岡山県内、三日目の朝、福山にて竹さんご夫妻と合流して、広島県下の史跡を回り、四日目は東広島市にて東広島郷土史研究会の皆様のご案内で神機隊関係の墓を巡り、翌日は広島から山口県に入り、そのまま山口県を西に進んで、私は防府で離脱して京都に戻った。竹様ご夫妻はそのまま掃苔の旅を続けられ、島根県を経由して鳥取県から大阪を経由して拠点である仙台に帰るという壮大な旅程である。大型連休にも関わらず比較的渋滞や混雑には遭遇せず、とても充実した時間を過ごすことができた。


姫路藩出張陣屋跡

 初日は、姫路でレンタカーを借りて、加古川、高砂、加西、姫路、たつの、佐用、宍粟を回った。途中、昼食をとるヒマもないほどの慌ただしさであったが、何とか予定した史跡を踏破することができた。
 最初の訪問地は加古川市の姫路藩出張陣屋跡である。
 寺家の商店街が尽きる辺りに、人形の店「陣屋」があるが、その隣が姫路藩の加古川役所として宝暦二年(1752)に建造された陣屋の跡である。明治十八年(1885)八月九日には、明治天皇が西国街道を巡幸の際、ここで昼食をとった。このとき、松盆栽を陳列したことから、「樹悳堂(じゅとくどう)」の名を贈られた。

 カメラを片手に付近を歩いていると、子供の頃からここに住んでいるという向いのオジサンが出てきて、色々教えてくれた。昔は、見学もできたらしいが、建物の老朽化が激しく、最近は公開中止となっているという。人形店「陣屋」は、陣屋とは無関係らしい。

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清澄白河 Ⅴ

2019年05月11日 | 東京都
(桑田立斎先生種痘所之跡)


桑田立斎先生種痘所之跡

 江東区清澄2‐12‐3の酒屋シンカワヤの前に「桑田立斎先生種痘所之跡」碑がある。桑田立斎がこの場所に小児科を開業したのは天保十三年(1942)のことで、この地で幼児に対し種痘を施したといわれる。
 この近くには、大相撲の大嶽部屋や高田川部屋などがある。実は北の湖部屋もあったのだが、主を失った道場から「北の湖部屋」の額は降ろされていた。

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浅草 Ⅶ

2019年05月11日 | 東京都
(保元寺)


榎本武揚一族之墓

 保元寺の本堂前に、榎本武揚一族之墓が建てられている。その横には、榎本家の略志碑がある。
 榎本家は、武州豊島郡石濱郷橋場の郷士で、平家一門の千葉氏の家人といわれる。江戸時代の祖榎本与兵衛武明は、延享三年(1746)六十八歳で没し、千葉氏と所縁ある石濱郷の古刹保元寺(法源寺とも称す)に葬られた。以来、一族の諸霊は保元寺に葬られた。四代武兵衛武由は、一女「とみ」の婿養子に箱田良助を迎えた。良助は備後国(広島県)箱田村の郷士の次男で、伊能忠敬が幕府の命で全国を測量する助手となり、後に榎本圓兵衛武規と称し、徳川幕府の家人となった。文政十年(1827)武規の妻とみが没したため、「こと」を迎え、武興、武揚兄弟を生み育てた。即ち、六代榎本勇之助武興の弟が釜次郎武揚である。
武揚は明治四十一年(1908)十月二十七日に歿し、当初保元寺に葬られたが、後に夫人多津子とともに改葬された。


桑田立斎墓
桑田氏中興碑

 榎本武揚一族の墓の隣に桑田立斎(りゅうさい)の墓と中興碑が建てられている。中興碑は、筒井政憲の書。
 桑田立斎は、文化八年(1811)、越後国新発田の生まれ。父は、新発田藩士村松喜右衛門。のち桑田玄真の養嗣子となった。蘭医坪井信道に師事し、天保十三年(1842)、深川万年橋畔に小児科を開いた。かねて仏道を信じ、上野国山内恵律師に帰依し、棄児養育並びに種痘について幾度か幕府に建白した。嘉永二年(1849)、蘭医モーニケによって牛種痘が初めて本邦に伝来し、痘種が江戸鍋島邸に到着したことを聞き、同邸および自邸で幼児十数名に接種した。種痘に関する書を次々と著し、その際、和歌や絵解を板刻して種痘の効用を宣伝した。安政四年(1857)、蝦夷地において痘瘡がアイヌの間に蔓延し、罹病者相次ぐという報が幕府に伝えられたことを受けて、立斎と箱館の医師深瀬洋春は、アイヌへの種痘を命じられた。立斎は門下の井上元長、秋山元潭、西村文石ほか従僕四人、苗児一人とその母親を伴って江戸を発ち、道すがら幼児に接種し、その中から良痘児を選んで次駅に伴うという駅伝方式をとって、目的地に活漿を運んだ。箱館にて深瀬洋春と会し、分担を定めた。立斎は東蝦夷地を巡って五一一五人(「明治国手百家略伝」では七千人とも)に種痘を施して、九月箱館に戻り、十一月江戸に帰った。済幼院の設立と十万児への種痘を畢生の念願としたが、済幼院による棄児救済は実現に至らず、接種児が七万人に達した時、慶応四年(1868)七月、五十八歳で没した。

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六本木 Ⅳ

2019年05月11日 | 東京都
(泉屋博古館分館)
 京都東山の泉屋博古館の分館が東京六本木にある(港区六本木1‐5‐1)。
 開催中の明治百五十年「華ひらく皇室文化」展の招待券を入手したので、早速行ってきた。
 泉屋博古館は、住友家十五代当主住友吉左衛門友純(ともいと)が蒐集した美術品等を収蔵したものである。友純の実父は徳大寺公純、実兄に徳大寺実則、西園寺公望がいる。友純(号は春翠)は美術品収集家として知られ、特に青銅器については、中国国外において質量とも最も充実したものと評価されている。泉屋博古館分館は、平成十四年(2002)に住友家の麻布別邸の跡地に開設されたものである。


泉屋博古館分館

 「華ひらく皇室文化」では住友コレクションから、皇室に献上された食器や工芸品の数々が展示されている。
 私にはあまり絵画や美術品の良さが分からないが、流石にここに陳列された品々は、どれをとっても丹念にして精巧であり、皇室に使われることや博覧会で世界の人の目に触れることを意識して作られたことが、素人でも感じられる。いずれも、解説文にあった「技芸の精華」という言葉がぴったりと当てはまるものであった。皇室の存在が、我が国の美術・工芸品のレベルアップに一役買ったということであろう。

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新居浜 Ⅱ

2019年05月11日 | 愛媛県
(広瀬家墓所)
 四年振りの新居浜である。宿泊したホテルから広瀬宰平の墓所まで、六キロメートル、歩いて一時間半という距離であったが、せっかくなので訪問することにした。朝五時に起きて、まだ暗いうちに出発した。さすがにこの時間、まだバスも動いておらず歩いて向かうしかない。広瀬家の墓所は、住所でいうと新居浜市山田町9に当る。高速道路を越えた山裾にある。周辺は新居浜では桜の名所の一つとなっているが、まだ蕾であった。


広照院英誉寿山保水大居士 広瀬宰平の墓(左)
養父母の墓(右)

 広瀬家墓所には、広瀬宰平の墓をはじめ、宰平の養父母、妻、先妻、先々妻らの墓が並べられている。養父母の墓石の隣に建てられた石燈籠には「TOKOSHIE NO HOMARE(永久の誉れ)」とローマ字で刻まれている。この石燈籠は、昭和十五年(1940)五月、別子開坑二百五十年祭に際し、住友吉左衛門(十六代友成)の宰平墓参を記念したものである。
 広瀬家墓所から一段下がった場所には、従業員の供養塔が並ぶ。
 墓所からは生前の広瀬宰平がその発展に尽くした新居浜の街を見下ろすことができる。

(瑞応寺)
 瑞応寺は、住友家や別子銅山と所縁の深い曹洞宗の禅寺である。別子で発生した火災や水害の犠牲者の墓などがある。本堂左手の長泉堂は、別子銅山の殉難者を祀っている。


瑞応寺

(日暮別邸記念館)


日暮別邸記念館

 日暮別邸は、新居浜市街から瀬戸内海の沖合約二十キロメートルの四阪島に、明治三十九年(1906)住友家の別邸として建設されたものである。平成三十年(2018)、住友グループ二十社によって、四阪島を遠望できる王子町の山頂に移築された。明治の近代化に伴い、製錬所を別子山中から新居浜に移転したところ、製錬所から拝出される亜硫酸ガスにより近隣の農作物に深刻な被害が出た。時の総理事伊庭貞剛は、製錬所を当時無人島であった四阪島に移転することを決意し、明治三十年(1897)、建設工事に着手した。製錬所が操業を開始したのは明治三十八年(1905)のことであった。
 多額の投資と歳月を費やした製錬所の移転であったが、予想に反して煙害は拡大し、最終的にペテルゼン式硫酸工場の導入により公害を解決したのは昭和十四年(1939)のことであった。

 日暮別邸は、製錬所の四阪島移転を提議し、具体化した鉱山技師塩野門之助が、日が暮れるまで構想を練ったといわれる丘に建てられた。のちに和館も増設されたが、移築されたのは洋館部分のみ。外壁内装ともオリジナルの建材を95%再利用したという。
 日暮別邸記念館近くには、四阪島にあった大煙突を模した展望台が設けられ、北は新居浜市の工場群や遠く四阪島、南には銅山越えまで見渡すことができる。


展望台より新居浜市街を臨む
御代島方面
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亀山 Ⅱ

2019年05月05日 | 三重県

(亀山城つづき)
 七年振りの亀山の史跡訪問である。前回訪問時、補修工事中のため見ることができなかった多門櫓は、美しい姿を見せてくれた。現在、亀山城はほぼ建造物が残されていないが、多門櫓は唯一の古建造物となっている。全国に古天守閣が残っている城郭は十二、古建造物の残るものが二十一とされるが、そのうちの一つである。


多門櫓


山嵜雪柳翁遺剱之碑

 山崎雪柳軒は、文政十一年(1828)の生まれ。利右衛門と称し、雪柳軒は雅号。槍術を音羽恭輔、馬術を早崎士太夫、さらに伊庭軍兵衛に心形刀流を学んで免許皆伝を得、慶應元年(1865)、亀山に演武場を開いた。その門人は諸国から集まって三百有余を数え、吉村寅太郎、上田亮三なども門下にあった。明治三年(1870)、剣法教授教頭として門弟十九人を助教に挙げて藩兵の教授に当り、明治四年(1871)以降は剣術の普及に努めた。明治十八年(1885)、単身諸国武者修行に各地道場を訪れ、西郷従道、榊原健吉らと論じ、また山岡鉄舟、逸見宗助らと剣技を交えた。明治二十六年(1893)、六十六歳にて没。


史跡明治天皇亀山行在所遺構 三重縣

 明治天皇は明治十三年(1880)、三重県下巡幸の際、七月十日、東町藤屋を行在所として大阪鎮台、名古屋鎮台の対抗演習を統監した。その際、行在所として使用した玉座が移築保存されている。

(亀山城外堀跡)


亀山城外堀跡

 亀山城の周辺には、太鼓門跡、大手門跡、三の丸跡といった標柱が至るところに建てられているが、残念なことに遺構はみられない。例外的に西ノ丸跡から発掘された外堀跡が復元保存されている。
 西ノ丸周辺には藩校明倫舎も置かれていたという。

(本久寺)
 亀山駅の近くにはレンタサイクルが見つからないので、歩いて市内を回るしかない。以下、歩いて訪問した順番に紹介する。
 亀山駅近くの本久寺は、亀山藩主をつとめた石川家の菩提寺である。なお、歴代藩主の墓は東京都北区田端の大久寺にある。


本久寺


石川家墓所

(飯沼慾斎生家跡)


飯沼慾斎生家跡

 飯沼慾斎(1783~1865)は、亀山西町西村家に生まれた。十二歳で美濃大垣に移り、飯沼家を継いだ。我が国の植物学の基礎を拓き。近代科学草創期の代表的な自然科学者である。


東海道亀山宿西町 にしむらや跡

(館家住宅)


館家住宅

 亀山市内の旧東海道沿いには、古い家屋が点在しており、往時の亀山宿の賑わいを偲ぶことができる。館家住宅はそのうちの一つである。

(亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡)


亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡

 亀山市内には城下町の風情を伝える古い建物が多数残されている。加藤家は江戸後期亀山藩主石川家の家老職を務めた家で、往時は相当広い敷地だったようだが、明治以降建物の大半は他所に移築され、現在は長屋門と土蔵が残されているのみとなっている。

(亀山宿)


東海道亀山宿 樋口本陣跡

 亀山宿は東海道五十三次のうち四十六番目の宿場町。つまり亀山は城下町であり、宿場町でもあった。旧街道沿いに伝統的な町屋が点在している。

 野村集落に所在する森家は、切妻造桟瓦葺で、西面に切妻棟を付設している。


森家住宅

(法因寺)
 東町の法因寺墓地には、樹齢三百年といわれる左巻カヤの大木がある。その樹の根もと辺りに黒田孝富の墓がある。
 黒田孝富は、京の勤王派とのつながりが深く、郡代奉行に抜擢され藩政改革を進めた。明治元年(1868)、反対派によって斬殺された。


法因寺


贈従五位 黒田孝富之墓

(慈恩寺)


慈恩寺

 野村は亀山宿の西端に位置する。野村の慈恩寺には、近藤鐸山(幸殖)夫妻の墓がある。


近藤幸殖 近藤捨子 墓

 近藤鐸山は、幕末の亀山藩士で、五代の藩主に仕え、前後三十年余藩老の重職を勤め、勤皇の志を一貫し、よく藩論を指導して順逆を誤らしめなかった。維新後、東京に住み明治二十三年(1890)没したため、東京谷中霊園にも墓がある。


堀池周空(堀池衝山)墓

 堀池衝山(1776~1845)は幕末の数学者で、亀山藩明倫舎で数学を教授し、その普及に貢献した。衝山の業績は子の久道により「要妙算法」として集大成された。

(照光寺)


照光寺

 照光寺は、もと玉泉院と称する日蓮宗の寺院であった。亀山藩主板倉重冬(在任 現禄元年~宝永六年)の養母照光院(俗名筆子)は篤く法華経に帰依し、元禄二年(1689)、野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号から寺号とした。

 境内墓地には、元禄十四年(1701)の亀山敵討ちで石井源蔵・半蔵兄弟によって討ち取られた赤堀水之助(源五右衛門)の記念碑と墓がある。


史跡 赤堀水之助(源五右衛門)の碑


赤堀水之助の墓


山木善太之墓

 山木善太(1800~1837)は、幕末の儒者で、亀山藩校明倫舎で儒学を教授しその普及に貢献した。著書に「海内医林伝」などがある。


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朝日

2019年05月05日 | 三重県


旧東海道

(淨泉坊)


淨泉坊

 朝日駅を降りて南側に行くと、関西線に並行して旧東海道が走っている。旧東海道を桑名方面に北進すると、最初に出会うのが淨泉坊である。
 本堂脇に国学者橘守部が建てた、守部の父飯田長十郎元親の墓がある。墓碑によれば、飯田長十郎が亡くなったのは寛政八年(1796)。飯田長十郎は、この地方の伊勢国朝明郡小向村(現・朝日町小向)の大庄屋格であり、国学者谷川士清の弟子であった。


前郷長飯田長十郎元親之墓

(橘守部誕生地遺跡)
 淨泉坊の前を走る旧東海道を数分北上すると向い側の空き地に「橘守部誕生地遺跡」という案内板が建てられている。


橘守部誕生地遺跡

 橘守部は、平田篤胤、香川景樹、伴信友と並ぶ「天保の国学四大家」に数えられる、時代を代表する国学者である。大庄屋飯田長十郎の長男として天明元年(1781)に生まれた。十七歳で江戸に下り、学問を志した。二十九歳のとき、武蔵国葛飾郡内国府間村(現・埼玉県幸手市)に転居し、四十九歳で再び江戸に戻った。その時、地庵と号した。当時、国学者の多くが本居宣長の門下であったが、ほとんど独学で国学を学んだ。「稜威道別(いつのちわき)」「稜威言別(いつのころわき)」など多数の著書を残した。嘉永二年(1849)、六十九歳で没。東京向島の長命寺に墓がある。

(朝日町役場)


朝日町役場

 朝日町役場の一角に橘守部の生誕地碑がある。書は佐々木信綱。建立は昭和二十七年(1952)九月。「くちせぬ名を国つ学の道の上に残せる大人はこの里の生みし」、「時じくのかぐのこのみのかぐわしきたかき名仰がむ八千とせの後も」という橘守部作の二つの歌が刻まれている。


橘守部翁生誕之地碑

(小向神社)
 朝日町役場からJR関西線の線路を挟んだ反対側にある小向神社は、橘守部を祭神とする神社である。境内には、橘守部の歌碑と思われる石碑が二基あったが、流麗な草書でかかれていて素人には読み取れない。


小向神社

(金光寺)
 旧東海道に戻って、さらに北上して近鉄の線路を越えると蠅生(なお)という街に入る。ここに金光寺がある。金光寺は、橘守部が手習いに通ったという寺である。金光寺は、明治三年(1870)、住職淨海を最後に無住となり、現在に至っている。


金光寺
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