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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

佐用

2019年05月25日 | 兵庫県
(常光寺)


常光寺


伊能忠敬宿泊之地

 伊能忠敬測量隊がこの地を訪ねたのは、文化十年(1817)十二月二十三日のことであった。伊能忠敬は幕府の命を受け、1800年からの十六年間、全国の沿岸部を測量し、「大日本沿海輿地全図」の作成にあたった。

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山崎 Ⅱ

2019年05月25日 | 兵庫県
(光泉寺)


光泉寺

 光泉寺本堂前には、「伊能忠敬日本地図製図の地」と記された碑が建てられている。「天文方御巡回覚日記」によれば、伊能忠敬測量隊が山崎を訪れたのは、文化十年(1813)のこと。一行は山崎近傍を測量し光泉寺本堂で製図を行い、地元の役人、人夫も測量に協力したと伝わる。


伊能忠敬日本地図製図の地

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たつの

2019年05月25日 | 兵庫県
(龍野城)


龍野城隅櫓

 龍野城は、今から五百年ほど前に鶏籠山の山頂に築かれた。初代城主は赤松村秀。以後、赤松氏が四代続いたが、天正五年(1577)に織田信長の命を受けた羽柴秀吉の播州征伐時にその軍門に下った。その後、慶長初年に山頂にあった天守が破却されたといわれる。江戸時代に入ると、現在地に平山城として築かれたが、万治元年(1658)、京極高和の丸亀移転に際して再び破却され、その後十四年間は天領となった。寛文十二年(1672)、幕命により信州飯田から脇坂安政が五万三千石で移封され、龍野城を再建した。時代は既に太平の世であり、また外様大名として幕府の嫌忌に触れることを恐れ、御殿式の築城となった。
 現在の本丸御殿は、昭和五十四年(1979)に再建されたものであるが、再建にあたって当時を偲ぶ貴重な資料や現在残っている数点の古図に基づき検証されたものである。


本丸御殿


家老門

 龍野城隅櫓のそばに家老脇坂家の屋敷の門が残されている。龍野県庁、揖東揖西郡役所の門として使用され、現在に至っている。

(武家屋敷資料館)
 武家屋敷資料館の敷地は、鉄砲師や鍛冶職として仕えていた芝辻平左衛門家の屋敷があった。建物のうち、江戸時代から継承されてきた主屋は、明治と昭和に二階の居室や水回りなどの改造が施されて、ごく最近まで住宅として使用されてきた。


武家屋敷資料館

(龍野公園)
 龍野神社の周辺は整備されて公園となっている。桜や紅葉が植樹され、季節になるとたくさんの人で賑わうらしい。


龍野公園


矢野静蘆紀恩碑

 矢野静蘆(せいろ)は、文化十三年(1816)、藩儒の家に生まれた。名は真亮、通称は真吾と称した。江戸に遊学して、詩を梁川星巌、文を大槻盤渓に学んだ。帰藩して藩校敬楽(けいごう)館の教授となった。維新後は、私塾遊焉塾(通称・矢野塾)を開き、地域教育に尽くした。明治二十八年(1895)、長男皆山(本名・温)が早逝したので、矢野勘治を養嗣子に迎えた(矢野勘治は、一高寮歌などの作詞で知られる歌人)。明治三十三年(1900)、静蘆は八十五歳で没。この石碑は、静蘆、皆山の薫陶を受けた門弟が明治三十年(1897)に建てたものである。


国木田專八・久保田猛二奉納の玉垣

 この親柱は、明治の文豪国木田独歩の父專八と異母兄久保田猛二が奉納したものである。專八は、龍野藩の軍艦指図役支配会計方で、銚子沖で難破した神龍丸の事後処理のために銚子に滞在中、二度目の妻まんとの間にもうけたのが独歩である。


聚遠亭

 聚遠亭は、安政年間龍野藩主脇坂安宅が京都所司代の職にあって御所が炎上した際、その復興に功績があったので、孝明天皇から賜った茶室が、心字池上に浮堂として移築されている。残念なことに私が訪れた時、休館中であったため、茶室や心字池などを見ることはできなかった。

(旧脇坂屋敷)
 幕末の頃、江戸上屋敷に居住していた脇坂氏が、明治になって龍野に帰還した際に居住した家屋で、昭和二十八年(1953)頃まで住んでいた。たつの市では、敷地の一部に植栽を施し、敷地内に回遊路を設けて公園化している。


旧脇坂屋敷

(小宅寺)
 小宅寺は龍野藩主脇坂家の菩提寺である。広い墓所の一番奥まった場所に脇坂家の墓所があり、そこに幕末、老中を務めた脇坂安宅(やすおり)とその嗣子脇坂安斐(やすあや)の墓がある。


小宅寺


従四位脇坂安宅墓

 脇坂安宅は、文化六年(1809)の生まれ。父は龍野藩主脇坂安董。天保十年(1839)従五位下淡路守に叙任され襲封。天保十四年(1843)には幕府奏者番、弘化二年(1845)、寺社奉行を兼ねた。嘉永四年(1851)、京都所司代となり、従四位下侍従に叙任された。幕府から重用される一方で、尊王の志が篤く、安政元年(1854)の禁裏炎上の際には、率先して天皇の避難を護衛し、皇居の造営には工費を増やして規模を拡張した。幕府に訴えて皇室の賄料を増額した。安政四年(1857)には老中に転じ、中務大輔と称し、外国事務を担当したが、万延元年(1860)十一月、辞任。文久二年(1862)、致仕して、封を養嗣子安斐に譲ったが、同年再び老中に任じられ、外国事務を担った。いくばくもなく病のため辞職。同年十一月、井伊直弼の横死について、台聴を欺いたとの老中在職中の罪を問われて、謹慎を命じられた。明治七年(1874)六十六歳にて没。


正五位子爵脇坂安斐墓

 脇坂安斐は天保十年(1839)の生まれ。父は津藩主藤堂高猷(四男)。安政五年(1858)、従五位下淡路守に叙され、文久二年(1862)、襲封した。元治元年(1864)、第一次長州征伐のため広島まで出陣したが、長州藩の処分に関し、慶應元年(1865)三月、藩主父子を江戸に召致することは困難であることを幕府に上書し、ついで長州再征の不可を老中板倉勝静に建白した。慶應三年(1867)十一月、諸侯会同の朝命により入京した。明治二年(1869)、版籍奉還により龍野藩知事に任じられ、明治四年(1871)、廃藩により免じられた。明治四十一年(1908)、年七十にて没。


正三位勲二等柴原和(やわら)墓

 本堂の裏には柴原和の墓と顕彰碑が建てられている。
 柴原和は龍野藩士。天保三年(1832)の生まれ。若くして江戸・京阪に出、大槻磐渓、安井息軒、梁川星巌らに学んだ。安政六年(1859)から諸国を歴遊。一時脱藩して森田節斎の塾頭を務めたが、帰藩して藩学の助教となり、元治元年(1864)頃から主に京師にあって周旋し、藩の方向を誤らせなかった。明治二年(1869)、待詔院出仕以降、甲府県大参事、岩鼻県大参事、宮谷県権知事を経て、明治四年(1871)には木更津県権令となり、明治六年(1873)には印旛県権令を兼ね、同年両県合併により千葉県令となった。地方民会の創設、教育・警察・地租改正などの面で治績をあげ、明治八年(1875)、地方官会議幹事を勤め、日本三県令の一人と称された。明治十二年(1879)には元老院議官に任じられ、明治二十一年(1888)山形県知事、のち香川県知事に転じ、明治二十七年(1894)には貴族院議員となった。明治三十八年(1905)、年七十四にて病没。


柴原君彰徳碑

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姫路 網干

2019年05月25日 | 兵庫県
(船渡八幡神社)
 船渡八幡神社の道を隔てて北側に加藤家の屋敷があり、その前に擷秀碑(けっしゅうひ=加藤邦太郎の彰功碑)が建てられている。


船渡八幡神社

 加藤家は代々天領の蔵元であった。維新後、加藤邦太郎は、戸長や県会議員、初代網干町長などを歴任した。赤松則良の依頼を受けて勝海舟が題字を揮毫している。


加藤家


擷秀碑(加藤邦太郎彰功碑)

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姫路 天満

2019年05月25日 | 兵庫県
(天満墓地)
 天満墓地に西南戦争の戦死者三木浅五郎の墓がある。墓地の中央付近に「南無阿弥陀佛」の石塔があり、その足元に墓石が置かれている。


西南役戦死 歩兵三木浅五郎

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姫路 広畑

2019年05月25日 | 兵庫県
(広畑天満宮)
 作家司馬遼太郎は、姫路市の広辺りの出身で、その関係で広畑天満宮の境内には、司馬遼太郎の文学碑が建てられている。建碑は平成十五年(2003)。


広畑天満宮


司馬遼太郎文学碑

 碑には司馬遼太郎の「歴史と小説」の一節が刻まれている。

――― 祖父惣八は、播州人である。
兵庫県姫路市の浜寄りの郊外の広(ひろ)という村の出身で、そこに江戸時代のあいだずっと百姓をしていた家系に生まれた。戦国のころは播州三木城にその先祖が籠城したということであるが、身分はわからない。
司馬遼太郎

 幕末、旧来の小祠を改め、現本殿の改築を行った際に、司馬遼太郎(本名福田定一)の祖父福田惣八が寄進をしており、本殿の裏側、向かって左から二十二本目の玉垣にその名前がある。


大阪 福田惣八

 さらに時代が下って昭和六十年(1985)、社務所を改築した際に、尊父福田是定がやはり篤志を寄進しており、文学碑の側の玉垣にその名前を確認できる。


東大阪 福田是定

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「忘れられた黒船」 後藤敦史著 講談社選書メチエ

2019年05月25日 | 書評
ロジャーズという人物を御存知だろうか。
「2017年(平成二十九年)のシーズン途中に来日し、一時は四番もつとめたタイガースの助っ人」
と即答できた人は、かなりの野球通もしくは熱心なタイガース・フアンであろう。ロジャーズは、明るいキャラクターでチームに溶け込み、自ら「パンダと呼んで」とフアンにアピールして、チームや首脳陣、そしてタイガース・フアンの期待を集めた。しかし、そのシーズンが終わるとアメリカに帰国して、二度と日本に戻ってくることはなかった。結局、これまで何人も来日した「ダメ外人」の一人に終わったが、私としてはもう少し辛抱強く使ってみても良かったのではという気もしている(マルテよりマシではないか)。
さて、本書の主役ロジャーズは、もちろん野球選手ではない。時期としては、ペリー来航(1853年と1854年の二回)とハリスの着任(1856年)の中間に当たる安政二年(1855)、筆者が「北太平洋測量艦隊」と名付けた艦隊を率いて下田に来航した。ペリーとハリスが、我が国の歴史に強烈な足跡を残したのに比し、ロジャーズはあまりに印象が薄い。まさに「忘れられた」存在である。
なぜ、北太平洋測量艦隊が忘れられた存在になってしまったのか。筆者は丹念にその背景を掘り起こしている。
安政二年(1855)五月十三日、ヴィンセンス号に乗るロジャーズは、ハンコック号を伴って、下田に入港した。彼らに応対したのは、下田奉行支配組与力合田猪三郎らであった。ロジャーズは測量のため来航した旨を告げ、五カ月後に再来航すると言い残して箱館方面に立ち去った。
ロジャーズの申し入れを受けて、江戸城内では再来航に備えて評議が続いた。測量を拒否すればアメリカが武力に訴えてくるかもしれない。測量を受け入れると、沿海部の大名の不服、不満が噴出し、不測の事態を招きかねない。幕閣の悩みは深かった。
しかし、結果的にロジャーズは現れなかった。ロジャーズは、幕府の許可を得るまでもなく、独断で日本の沿海部の測量を実行し、さらに北方海域の測量を続け、その年の十月、サンフランシスコに帰航し、一旦彼らの測量事業は終了した。ロジャーズ艦隊の二度目の来航がなかったため、結果的に彼らの来航は、幕末史にインパクトを残すことはなかった。
アメリカが極東に測量艦隊を派遣したのは、北太平洋海域を測量し、その正確な海図を作製することにあった。この背景には、アメリカの北太平洋構想があり、中国への太平洋航路を開くことにより、イギリスの覇権に挑戦するという壮大な企図があった。
ところが、ロジャーズの測量艦隊は、アメリカにおいても「忘れられた」存在となっている。何故か。ロジャーズ艦隊の成果である海図は刊行されることはなかったのである。アメリカで南北戦争が勃発すると、アメリカ海軍は海図の刊行どころではなくなった。その間、イギリス海軍が派遣した測量艦隊が、その成果として海図を刊行し、二十世紀初頭まで世界中で広く利用されることになった。
本書はロジャーズの測量艦隊という知られざる史実を掘り起こし、その歴史的意義を明らかにした快作である。筆者が研究費の助成を得て、「五年近くかけてアメリカで史料をひたすら読み進めた成果」でもある。研究し尽くされている感のある幕末史であるが、まだこのような知られざる人物や史実があったことが驚きでもあった。タイガースのスカウト陣も、これくらいの執念と鑑定眼をもって、優良助っ人を発掘してもらいたいものである。

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