(保元寺)
榎本武揚一族之墓
保元寺の本堂前に、榎本武揚一族之墓が建てられている。その横には、榎本家の略志碑がある。
榎本家は、武州豊島郡石濱郷橋場の郷士で、平家一門の千葉氏の家人といわれる。江戸時代の祖榎本与兵衛武明は、延享三年(1746)六十八歳で没し、千葉氏と所縁ある石濱郷の古刹保元寺(法源寺とも称す)に葬られた。以来、一族の諸霊は保元寺に葬られた。四代武兵衛武由は、一女「とみ」の婿養子に箱田良助を迎えた。良助は備後国(広島県)箱田村の郷士の次男で、伊能忠敬が幕府の命で全国を測量する助手となり、後に榎本圓兵衛武規と称し、徳川幕府の家人となった。文政十年(1827)武規の妻とみが没したため、「こと」を迎え、武興、武揚兄弟を生み育てた。即ち、六代榎本勇之助武興の弟が釜次郎武揚である。
武揚は明治四十一年(1908)十月二十七日に歿し、当初保元寺に葬られたが、後に夫人多津子とともに改葬された。
桑田立斎墓
桑田氏中興碑
榎本武揚一族の墓の隣に桑田立斎(りゅうさい)の墓と中興碑が建てられている。中興碑は、筒井政憲の書。
桑田立斎は、文化八年(1811)、越後国新発田の生まれ。父は、新発田藩士村松喜右衛門。のち桑田玄真の養嗣子となった。蘭医坪井信道に師事し、天保十三年(1842)、深川万年橋畔に小児科を開いた。かねて仏道を信じ、上野国山内恵律師に帰依し、棄児養育並びに種痘について幾度か幕府に建白した。嘉永二年(1849)、蘭医モーニケによって牛種痘が初めて本邦に伝来し、痘種が江戸鍋島邸に到着したことを聞き、同邸および自邸で幼児十数名に接種した。種痘に関する書を次々と著し、その際、和歌や絵解を板刻して種痘の効用を宣伝した。安政四年(1857)、蝦夷地において痘瘡がアイヌの間に蔓延し、罹病者相次ぐという報が幕府に伝えられたことを受けて、立斎と箱館の医師深瀬洋春は、アイヌへの種痘を命じられた。立斎は門下の井上元長、秋山元潭、西村文石ほか従僕四人、苗児一人とその母親を伴って江戸を発ち、道すがら幼児に接種し、その中から良痘児を選んで次駅に伴うという駅伝方式をとって、目的地に活漿を運んだ。箱館にて深瀬洋春と会し、分担を定めた。立斎は東蝦夷地を巡って五一一五人(「明治国手百家略伝」では七千人とも)に種痘を施して、九月箱館に戻り、十一月江戸に帰った。済幼院の設立と十万児への種痘を畢生の念願としたが、済幼院による棄児救済は実現に至らず、接種児が七万人に達した時、慶応四年(1868)七月、五十八歳で没した。

榎本武揚一族之墓
保元寺の本堂前に、榎本武揚一族之墓が建てられている。その横には、榎本家の略志碑がある。
榎本家は、武州豊島郡石濱郷橋場の郷士で、平家一門の千葉氏の家人といわれる。江戸時代の祖榎本与兵衛武明は、延享三年(1746)六十八歳で没し、千葉氏と所縁ある石濱郷の古刹保元寺(法源寺とも称す)に葬られた。以来、一族の諸霊は保元寺に葬られた。四代武兵衛武由は、一女「とみ」の婿養子に箱田良助を迎えた。良助は備後国(広島県)箱田村の郷士の次男で、伊能忠敬が幕府の命で全国を測量する助手となり、後に榎本圓兵衛武規と称し、徳川幕府の家人となった。文政十年(1827)武規の妻とみが没したため、「こと」を迎え、武興、武揚兄弟を生み育てた。即ち、六代榎本勇之助武興の弟が釜次郎武揚である。
武揚は明治四十一年(1908)十月二十七日に歿し、当初保元寺に葬られたが、後に夫人多津子とともに改葬された。

桑田立斎墓
桑田氏中興碑
榎本武揚一族の墓の隣に桑田立斎(りゅうさい)の墓と中興碑が建てられている。中興碑は、筒井政憲の書。
桑田立斎は、文化八年(1811)、越後国新発田の生まれ。父は、新発田藩士村松喜右衛門。のち桑田玄真の養嗣子となった。蘭医坪井信道に師事し、天保十三年(1842)、深川万年橋畔に小児科を開いた。かねて仏道を信じ、上野国山内恵律師に帰依し、棄児養育並びに種痘について幾度か幕府に建白した。嘉永二年(1849)、蘭医モーニケによって牛種痘が初めて本邦に伝来し、痘種が江戸鍋島邸に到着したことを聞き、同邸および自邸で幼児十数名に接種した。種痘に関する書を次々と著し、その際、和歌や絵解を板刻して種痘の効用を宣伝した。安政四年(1857)、蝦夷地において痘瘡がアイヌの間に蔓延し、罹病者相次ぐという報が幕府に伝えられたことを受けて、立斎と箱館の医師深瀬洋春は、アイヌへの種痘を命じられた。立斎は門下の井上元長、秋山元潭、西村文石ほか従僕四人、苗児一人とその母親を伴って江戸を発ち、道すがら幼児に接種し、その中から良痘児を選んで次駅に伴うという駅伝方式をとって、目的地に活漿を運んだ。箱館にて深瀬洋春と会し、分担を定めた。立斎は東蝦夷地を巡って五一一五人(「明治国手百家略伝」では七千人とも)に種痘を施して、九月箱館に戻り、十一月江戸に帰った。済幼院の設立と十万児への種痘を畢生の念願としたが、済幼院による棄児救済は実現に至らず、接種児が七万人に達した時、慶応四年(1868)七月、五十八歳で没した。
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