史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

静岡 Ⅶ

2017年12月15日 | 静岡県
(松樹院)


松樹院


故駿府城代信濃守松平君之墓

 松樹院の門前から北に十メートルほど行った角を右折して坂を上ったところに松平忠明の墓がある。
 松平忠明は、豊後岡藩主の二男に生まれ、旗本松平家の養子となった。寛政十年(1798)、幕府の命を受け蝦夷地の奥地まで探索した。享和二年(1802)、駿府城代に就任。火災により粗末な仮宮のままであった静岡浅間神社の再建に尽くしたが、その途中の文化二年(1805)死去。駿府の人々は、「有り難いご城代さん」と呼んでいた。自分が死んだら、浅間神社の木遣りの音頭の聞こえるところに葬って欲しいとの遺言に従って、この地に墓が作られた。

(山岡鉄舟邸址)
 山岡鉄舟邸址を探してこの付近を歩き回っていて、一人の老人と目が合った。在り処を尋ねると、
「二本目の筋を左に折れたところにある」
と教えていただいた。何のことはない。自分が自動車を駐車した目の前にあった。


山岡鉄舟邸址


山岡鉄舟邸址

 山岡鉄舟は、明治元年(1868)、駿府藩若年寄格幹事役に付くと、翌明治二年(1869)には静岡藩権大参事として、この場所に住み旧幕臣の無禄移住者の生計確保のために奔走した。城下の治安維持にも努めるなど、八面六臂の活躍であった。さらに殖産興業にも意を尽くし、牧之原大茶園や清水次郎長の富士裾野開拓を後押しした。明治五年(1872)、西郷隆盛らの強い要請を受け、十年間という期限を切って明治天皇の侍従となり、青年天皇の人格形成に大きな影響を与えた。
 山岡鉄舟邸址碑は、説明書きのある場所から北寄りの歩道上に再建されている。

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島田 Ⅱ

2017年12月15日 | 静岡県
(今井信郎屋敷跡)
 島田市阪本の奥まった場所に今井信郎が居を構えていた。近くまで来ると、案内板が出ているので、それに従って進めば行き着くことができる。ただし、対向車が来たらすれ違えないような細い道なので、運転には細心の注意が必要である。


今井信郎屋敷跡


屋敷跡

 今井信郎は、天保十二年(1841)、幕臣今井守胤の長子として江戸に生まれた。長じて湯島の聖堂に出仕、和漢の道、絵画を学んだ。安政五年(1858)、十八歳にして直心景流榊原鍵吉の門に入り、二十歳にして免許皆伝、講武所師範代を拝命した。文久三年(1863)、横浜で密貿易取締役に就任。慶應三年(1867)、江戸に戻り、京都見廻組を拝命し、松平容保の配下に属した。同年十一月十五日、京都近江屋を同志とともに襲撃して坂本龍馬を殺害した。戊辰戦争では衝鉾隊を組織し、副隊長として奥州を転戦し、箱館五稜郭で敗れて入牢した。明治五年(1872)、特赦によって出所。この年、静岡に学校を設立。新政府に仕えて八丈島に赴き、教育、産業振興に尽力した。明治十一年(1878)、中條景昭らの勧めにより、島田市阪本の一隅に居を構えた。今井信郎は、この場所で晴耕雨読、実験農業、新品種の試作研究の日々を過ごし、さらに三養社なる政治結社を創設し「教育」「産業」「衛生」の重要性を説いた。五十五歳で郡農会長。その間に村会議員、学務委員を歴任し、四代目は初倉村長を務めた。大正七年(1918)、自宅で生涯を閉じた。享年七十八。

(医王寺)


医王寺

 医王寺の山門を入って左手直ぐに大谷内龍五郎の墓がある。大谷内龍五郎は、明治三年(1870)十二月二十日の夜、医王寺本堂にて自刃した。沢水加崇源寺墓地の墓が本墓であり、医王寺は分骨墓である。


大谷内龍五郎之墓

 沢水加崇源寺墓地の墓と同じ法名「大賢院殿彰義幸重居士」が墓石に刻まれている。

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相良 Ⅱ

2017年12月15日 | 静岡県
(浄心寺)


浄心寺

 浄心寺には新門辰五郎の妻の墓がある。何故、ここに辰五郎の妻の墓があるのか、よく分からないままであるが、まずは墓を探し当てることに専念しよう。
 意外とあっさりと見付けることができた。誰が置いてくれたか知れないが、墓の前に「↑ 新門の妻」というプレートがあったのである。


遊樂院妙善信女(新門辰五郎の妻の墓)

 墓石に色々と記されているので、それを解読できれば、辰五郎の妻がここに葬られた経緯なども分かると思うが、目を皿にして見ても読み取れない。

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御前崎

2017年12月15日 | 静岡県
(池宮神社)
 御前崎市佐倉の池宮神社は、敏達天皇の時代(584)に社殿が造営されたという長い歴史を持つ神社である。その後、社殿が大破するまで衰退したが、室町時代には今川氏の崇敬を受けて再興。しかし、この場所は武田氏、徳川氏の争奪戦場となり、戦火によって社殿や神宝、旧記、古門書の大部分を焼失した。江戸時代に入って徳川家の庇護を受け再興した。社殿は桜ヶ池のほとりに建てられていて、神社の境内というより、広大な公園のような空間である。


池宮神社


池宮神社
(徳川慶喜書)

 社殿に掲げられている「池宮神社」の文字は徳川慶喜の書である。

 神社の資料展示室には関口隆吉関係の文書や年譜などが展示されている。「いま甦る 幕末、維新の隠れた希代の英傑 関口隆吉」という妙に力の入ったキャッチコピーが目につく。どうして池宮神社資料展示室に関口隆吉関係資料が展示されているのか、今一つよく分からないが、非常に充実した展示となっている。


池宮神社資料展示室
(関口隆吉関係)


桜ヶ池

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菊川

2017年12月15日 | 静岡県
(洞月院)
 菊川市加茂の洞月院に関口隆吉の顕彰碑が建てられている。


洞月院

 関口隆吉は天保七年(1836)、江戸の生まれ。幕臣の子に生まれた隆吉は、幕府崩壊後、一家を挙げて、父の郷里に近い静岡県月岡村(現・菊川市月岡)で開拓に従事し、牧の原の茶園開発の功労者となった。その後、明治新政府に見出されて、山形県、山口県、静岡県の各県令を歴任し、明治十九年(1886)、初代静岡県知事に就任した。明治二十二年(1889)、鉄道事故による負傷が原因で死去。五十四歳。この石碑は、関口隆吉の数々の事績が刻まれている。洞月院が関口家の菩提寺だった関係でここに顕彰碑が建立されることになった(関口隆吉の墓は、静岡市内臨済寺に移されている)。書は勝海舟。


関口隆吉氏の碑

(長池公会堂)


織部鳬山先生之碑

 長池公会堂の向い辺りに織部鳬山(ふざん)の碑がある。織部鳬山は、延享元年(1744)の生まれ。少年の頃から学問が好きで、大草太郎左衛門(榛原町)に教えを受けた。二十七歳のとき、江戸に出て澤田東江の門下で勉学に励んだ。昌平黌の教授となる一方、雉子橋内豆腐屋敷(東京丸の内)で私塾を開き、門弟は町人から旗本大名まで二千余に及んだといわれる。八十七歳のときに郷里に戻って、地元の人を教え、頼みに応じて書をかいた。渡辺崋山とも親しく、崋山も加茂の鳬山の家を訪れたことがあった。天保十二年(1841)に死去。

(沢水加宗源寺墓地)


大谷内龍五郎源幸重墓

 沢水加(さばか)公会堂の裏手の崇源寺墓地に大谷内(おおやうち)龍五郎の墓がある(崇源寺は廃寺)。側面には「大賢院彰義幸重居士」という法名が刻まれている。
 大谷内龍五郎は、彰義隊九番隊長。上野戦争の後、旧幕臣は大挙して静岡に移住したが、生活は困窮した。解党して新しく職を探そうというグループとそれに反対する正義派に分裂して対立した。正義派は首領として大谷内龍五郎を担いた。正義派は待遇改善を静岡藩庁に訴えたが聞き入れてもらえず、これを妨害するのは解党派の齋藤金三郎、上野岩太郎らの仕業だと信じた彼らは、齋藤と上野を斬殺した。事態の終結を図った大谷内龍五郎は、斎藤と上野の遺児に介錯させて自ら命を絶った。当時は仇討が禁じられていたので、これが最後の仇討といわれる。龍五郎三十六歳であった。

実は私は、「最後の仇討」と呼ばれる事件の現場をこれまで複数訪れている。秋月、高野山、紀伊河内国境、金沢等々。「最後の」と形容のつくものがいくつも存在しているというのは、いかにも変だが、誰も苦情をいうこともないので、こうして併存しているのである。少なくとも仇討禁止令が出たのは明治六年(1873)のことであり、明治三年(1870)の大谷内龍五郎の自刃を「最後」とするのは無理がある。

(山田家)
 大谷内龍五郎が寄宿していた山田家が、宗源寺墓地に近い場所にある。今も山田家には、龍五郎の辞世などが保管されているという。


山田家
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