(中津駅)
福沢諭吉像
JR中津駅を下りると、郷土の英雄福沢諭吉像が迎えてくれる。その前に「蘭学の泉」と記された石碑が建てられており、江戸中期から明治にかけて中津藩が輩出した蘭学者の名前が刻まれている。石碑は「福沢諭吉の誕生も、この伝統と土壌があったため」と説く。
奥平昌鹿(1744~1780) 第三代中津藩主。前野良沢を育成。
前野良沢(1723~1803) 杉田玄白とともに「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を著した。
奥平昌高(1781~1855) 第五代中津藩主。蘭癖大名といわれるほど、蘭学を好んだ。
村上玄水(1781~1843) 九州初の人体解剖を実施。
大江春塘(1787~1844) 長崎に留学。蘭和辞典「中津バスタード辞書」を出版。
田代基徳(1839~1898) 近代外科学の礎を築いた。
剣豪島田虎之助誕生の地
中津駅を反対側(南側)に出ると、そこに剣豪島田虎之助誕生の地碑がある。
島田虎之助は、文化十一年(1814)、豊前中津藩士島田市郎右衛門親房の四男に生まれた。名は直親、号は硯山。藩の剣術師範堀某に外他(とだ)一刀流を学び、十八歳の頃、九州各地を武者修行。のち江戸の直心影流男谷精一郎に入門した。三十歳のとき、深川霊岸島に道場を開き、直心流島田派を称した。儒者の中村栗園らと親交があり、若き日の勝海舟も虎之助に剣を学んでいる。旗本松平内記の家臣に剣術を教え、二十人扶持を受けたが、嘉永五年(1852)三十九歳で病没。墓は浅草正定寺。
(中津城)
中津城主奥平家が歴史の表舞台への登場したのは、有名な長篠の戦いにおいて初代貞能と貞昌(のちに信昌)父子がわずか五百人で籠城し、一万五千といわれる武田勝頼軍に包囲された頃からであった。奥平は落城寸前まで追い込まれたが、織田信長、徳川家康の連合軍が到着し、激戦の末武田軍を破った。のちに奥平貞昌は家康の長女亀姫を正室に迎え、松平の姓を賜る等、徳川家に重用された。その後、奥平家は新城城(愛知県)、加納城(岐阜県)、宇都宮城(栃木県)、宮津城(京都府)を経て、享保二年(1717)、奥平家第七代昌成が中津一万石の領主として中津に入った。その後、第十五代昌遇までの百五十五年にわたり中津を治め、明治維新・廃藩置県を迎えた。

中津城
九代藩主奥平昌高は薩摩藩主島津重豪の次男である。シーボルトとも交流があり、中津辞書と呼ばれる「蘭語訳撰」(日蘭辞書)や「パスタールド辞書」(蘭日辞書)などを出版したほか、藩校進脩館の創設や中津祇園振興のために、堀川町に祇園車を送るなど、中津の蘭学・文化発展に寄与した際立った人物であった。またペリー来航時には、積極的な開国を主張した開明的な人であったが、安政二年(1855)に七十四歳にて死去。
独立自尊碑
中津城には、福沢諭吉が唱えた有名な言「独立自尊」の碑が建てられている。書は日下部鳴鶴。
西南役中津隊之碑
西南役中津隊之碑は、大正十四年(1925)の建立。題字は最後の中津藩主奥平昌遇の子息で貴族院議員の奥平昌恭(まさやす)の筆。石碑裏側の銘文は、増田宋太郎の甥で、神戸高等商業学校(現・神戸大学)の初代校長となった水島銕也。銘文は全て漢文で、増田宋太郎の顕彰と中津隊の奮戦を刻む。末尾に中津隊を讃える漢詩が添えられている。
扇城志士 忠勇絶倫 修文振武 鼓舞士民
舎生取義 殺身成仁 郷俗欽仰 光榮千春
(福沢諭吉旧宅)
留守居町には、享和三年(1803)築の福沢諭吉の旧宅や土蔵が保存され、遺品や遺墨、書簡などを展示・保管する福沢記念館が併館している。
福沢諭吉先生
福沢諭吉が生まれたのは天保五年(1835)、大阪の中津藩蔵屋敷である。父福沢百助は十三石二人扶持の下級武士であった。一歳六か月のとき父と死別し、母子六人で中津に帰郷。貧しい少年時代をここで過ごした。十四、五歳のころから勉学に目覚め、儒学者白石照山の塾で学んだ。安政元年(1854)、十九歳で蘭学を志して長崎に遊学、翌年から大阪の緒方洪庵の適塾で学んだ。安政五年(1868)には藩の命で江戸の中屋敷の蘭学塾の教師となった。これが慶應義塾の始まりとされる。万延元年(1860)、幕府の遣米使節団護衛船咸臨丸に軍艦奉行の従者として乗り込み渡米を果たし、文久二年(1862)には幕府使節団の一員としてヨーロッパ諸国を歴訪した。その後、これらの経験をもとに「西洋事情」を著し、続けて「学問のすゝめ」「文明論之概略」などのベストセラーを次々と発表して、当時の日本人を啓蒙し続けた。明治三十四年(1901)、六十六歳のとき脳出血を再発して永眠。

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉記念館
福澤諭吉舊宅跡
照山白石先生紀念碑
福沢諭吉記念館前の駐車場の隣の土地は、小さな公園になっている。福沢諭吉の師、白石照山の顕彰碑などが建てられている。
白石照山は、文化十二年(1815)、中津藩士久保田武右衛門の長男として生まれた。藩校進脩館にて野本白巌に学び、二十四歳のとき藩校の督学となった。その後、江戸に上り、幕府の昌平黌に六年間学んだ。天保十四年(1843)、帰藩して私塾晩香堂を開設した。四十五歳の時、臼杵藩学古館の教授に登用され、その後豊前四日市郷校の教授に就いた。明治二年(1869)、中津藩より上士として迎えられ、藩校進脩館の教授となった。しかし、明治四年(1871)、藩校が廃止されると、私塾晩香堂を再開した。明治十六年(1883)、六十九歳にて没。福沢諭吉も十四歳のころから、照山の私塾晩香館に学んでいる。福沢諭吉は、長崎で蘭学を修めた後、大阪の適塾で学んだが、学費を捻出するために父の蔵書を売ろうとしたが、買い手がつかず、これを知った照山は臼杵藩に働きかけて十五両で買い取らせた。これにより福沢諭吉は続けて適塾で勉学を続けることができた。
人事忙中有清閑碑
「人事忙中有清閑」とは「人事忙中清閑あり」と読み、忙しい中でも心に余裕を持ち、実りある人生を送らなければならないという諭吉の言葉が刻まれた碑である。