史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

高田馬場

2013年01月03日 | 東京都
(南蔵院)


南蔵院

 私は高田馬場駅から歩いて十分かかったが、南蔵院(豊島区高田1-19-16)の最寄りの駅は都電荒川線の面影橋駅である。南蔵院は室町時代に開山したという古刹で、江戸時代には三代将軍家光がたびたびここを訪れたと記録されている。本堂前に彰義隊士首塚がある。


彰義隊士首塚

 上野戦争後、ここに逃れてきて息絶えた彰義隊士九名の墓碑である。いずれも明石藩士である。その中の一人津田芳之は、江戸屋敷の大目付津田柳雪の子で、藩邸を脱出して彰義隊に身を投じた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

府中 Ⅴ

2013年01月03日 | 東京都
(多摩霊園 つづき)


小泉家之墓
(小泉信吉の墓)

 小泉信吉(のぶきち)は、和歌山藩士。慶應二年(1866)、藩の留学生として福沢諭吉の門をたたき入塾した。維新後は、官立開成学校教授となって、日本に初めて演説法を紹介した。旧藩主の援助によってイギリスに留学した。以後大蔵省や慶應義塾の塾長を務めるなど、要職を歴任した。明治二十七年(1894)四十五歳にて没。


安田家墓
(安田善次郎の墓)

 安田善次郎は、天保九年(1838)越中富山の生まれ。安政元年、江戸に出て両替商に奉公し、元治元年(1864)安田屋開いて、名を善次郎と改めた。維新後は川崎八郎右衛門とともに第三国立銀行を創立し、明治十三年(1880)には安田商店を安田銀行と改称。共済五百名社(のちの安田生命保険会社、現・明治安田生命保険相互会社)を設立した。大正十年(1921)大磯の別荘で朝日平吾に刺殺された。日比谷公会堂、東京大学安田講堂を始め、公共事業にも多くの寄付をした。JR鶴見線の安善駅は、安田善次郎の名に因んだものである。


狩野良知之墓

 狩野良知(りょうち)は、秋田藩士。江戸に出て佐藤一斎、昌平黌などで学んだ。尊王開国を唱え「三策」を著した。嘉永六年、北国旅行中に大館に立ち寄った吉田松陰がこれを持ち帰り、のちに松下村塾より出版された。戊辰戦争では藩校明徳館詰役支配に抜擢された。維新後、内務省権少書記官などを歴任した。明治三十九年(1906)、七十八歳で病没。

(善明寺)


善明寺


西園寺實満之墓

 府中本町駅そばの善明寺の境内には、墓地がない。一旦、寺を出て、裏手の駐車場の一角に小さい墓地があり、そこに西園寺実満の墓がある。
 西園寺実満は公家出身。天保十四年(1843)京都に生まれた。文久三年(1863)の生野の変や戊辰戦争にも参加した。明治後は、一時太政官に出仕したが、国学、漢学、詩歌に長じ、書にも長じていたため、神田一ツ橋に温和学堂を開き、門弟の教育にあたった。姪が善明寺住職の室となっていたことから、晩年を善明寺で過ごした。大正七年(1918)、七十六歳で没。

(大長寺)


大長寺


成合清の墓

 成合清は桑名藩士。鳥羽伏見戦争で新政府軍に敗れると、江戸に敗走。藩主定敬に従って越後柏崎に向かい、桑名軍の軍事方となった。仙台では藩主の蝦夷渡航に、同行を許された三名のうちの一人に選ばれた。箱館では新選組に入隊し、指図役下役となった。明治十年(1877)、三十歳で病没。

(関田家)


関田家

 若松町一丁目の関田家は、慶應四年(1868)三月、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が府中に進行した際、病状の悪化した沖田総司が隊を離れて療養した記録が残る。関田家は、甲陽鎮撫隊の後方野戦病院を引き受けたと言われるが、甲陽鎮撫隊が呆気なく敗走したため、野戦病院としての機能を発揮することなく終わってしまった。また、入口左手に現存する土蔵に、彰義隊士など旧幕兵を匿ったとも言われる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町田 玉川学園

2013年01月03日 | 東京都
(玉川大学)


玉川学園

 町田市の玉川学園には咸宜園と松下村塾が模築されている。どうして玉川学園に建てられたのか今一つよく分からないが、ちょうど学園祭が開かれている秋の週末、思い立って玉川学園を訪ねた。当たり前のことながら、キャンパスは学園祭で盛り上がっていた。あまりに五月蝿いので、ヘッドホンで音楽を聴きながら咸宜園と松下村塾を探した。


咸宜園(模築)

 咸宜園は、儒者広瀬淡窓が文化二年(1805)日田(大分県)に開いた私塾である。淡窓が塾の名を咸宜園と改めたのは、開塾から十二年経った文化十四年(1817)のことであった。咸宜とは「詩経」からとった言葉で「みなよろしい」という意味であり、その名のとおり身分、年齢、学歴に関係なく誰でも入門が許された。六十六カ国から四千人が集まったといわれ、その中には大村益次郎や高野長英、谷口藍田らもいた。安政三年(1856)広瀬淡窓が七十五歳で死去して以後、広瀬旭荘(淡窓の末弟)、青邨(淡窓の養子)、林外(旭荘の子)に継承され、明治三十年(1897)まで約九十年間続いた。


松下村塾(模築)

 松下村塾では茶道部が茶会を開いており、ここでも私はお邪魔虫であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新馬場 Ⅲ

2013年01月03日 | 東京都
(権現山公園)


権現山公園

 かつてイギリス公使館が建設された御殿山は、品川の台場建設のため大量の土砂が採取され、明治に入ってから鉄道が縦貫したこともあって、ほとんど「山」と呼ばれた往時の姿を留めていない。御殿山を偲ばせる遺跡として、権現山公園が貴重な存在となっている。
 文久二年(1862)には、建設中のイギリス公使館を長州藩士が焼き討ちする事件の舞台ともなっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東池袋 Ⅱ

2013年01月03日 | 東京都
(雑司ヶ谷霊園 つづき)
謹賀新年


豊城渡辺重石丸(いかりまる)墓

 渡辺重石丸は、天保八年(1837)豊前中津に生まれた。幼名は重任。号は豊城。安政四年(1857)には故郷で私塾道生館を開いた。慶應三年(1867)には平田篤胤の没後門人となった。維新後は、官に仕えて京都皇学所御用掛兼議官、教部省、内務省社寺局事務取扱などを歴任したが、道生館の門弟増田宋太郎が薩軍に投じたため、官途を辞し、以後は著述と教育に専念した。多くの著書を残したが、「固本策」は中でも有名。これを読んで感激した乃木希典は、教えを請うて師事した。大正四年(1915)七十九歳にて死去。【1種11号6側】


大井憲太郎墓

 大井憲太郎は、天保十四年(1843)に豊前宇佐に生まれた。文久三年(1863)二十歳のときに長崎に遊学し、そこで大井卜新の知遇を得て、養子となった。卜新は蘭医であったが、維新後は実業界で活躍し、大阪商業会議所副会頭なども努めた人物である。大井憲太郎は幕軍砲兵隊に属して戊辰戦争にも参加した。維新後は一時期、元老院書記官などを務めたが、官界を去った後は自由民権活動急進派の指導者として活躍した。明治十八年(1885)には大阪事件(弾圧に反発して朝鮮で活動を激化しようとして事前に計画が漏れ自由民権活動家が大量に逮捕された事件)を起こして逮捕投獄されている。大正十一年(1922)七十九歳で世を去った。【1種16号3側】


澤(為量)家之墓

 澤為量(ためかず)は、文化九年(1812)の生まれ。戊辰戦争では奥羽鎮撫副総督に任じられ、九条道孝総督を助けて奥羽各地を転戦。戦後、軍功により賞典禄二百石を下賜された。明治二年(1869)、宮内権大丞に任じられたが、翌年退官して家督を同姓宣嘉に譲った。明治六年(1873)宣嘉が久死したことにより、再び家を継いだ。明治二十二年(1889)、七十八歳で死去した。【1種1号3側】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする