史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

新発田 Ⅱ

2011年07月16日 | 新潟県
(周円寺)


周円寺


義山院世雄信士(新発田藩兵の墓)

慶応四年(1868)八月十四日没。

(法華寺)
市内法華寺に窪田平兵衛武文(節斎)の墓がある。窪田平兵衛武文は、新発田藩家老の家に生まれ、藩侯の信任厚く、慶応三年(1867)幼君の名代として激動の京都に赴き、天下の情勢を逐一藩に報告した。戊辰戦争の際、新発田藩は一旦奥羽越列藩同盟に加盟したが、直後早々に新政府軍に加担したのは、窪田の働きが大きかったと言われる。


法華寺


窪田平兵衛武文墓

表面は磨滅してほとんど読めない。

(新発田城)
新発田藩溝口家の居城である。
新発田藩は、奥羽越列藩同盟に加盟したが、もともと勤王を藩論としていたこともあり、新政府軍が新潟に上陸するとすぐさま協力を申し出た。


新発田城三階櫓

新発田城には、父が辰己櫓の管理責任者だった縁で堀部安兵衛の銅像が建っている。更に表門二ノ丸隅櫓を過ぎたところには初代藩主未溝口秀勝の像もある。秀勝以来、十二代に渡る溝口家の居城であった。この城に天守閣はなく、本丸の西端にあった三階櫓がその役目を果たしていた。


新発田城表門二ノ丸隅櫓

享保十七年(1732)建築の表門と寛文八年(1668)建築の旧二ノ丸隅櫓は、いずれも国指定の重要文化財である。

(七葉中学校)


七葉中学校
三日市陣屋跡

三日市藩は柳沢氏一万石の領地である。新発田市内、七葉中学校が陣屋跡であるが、何ら遺構らしきものは残っていない。当時、藩主柳沢徳忠は不在で、陣屋には藩士が七名しかいなかった。新潟と長岡が陥落したという報を得て、七月二十八日、三日市藩は早々に降伏した。

(JR新発田駅)


大倉喜八郎胸像

JR新発田駅前の新発田病院が立地する広大な敷地は、大正八年(1919)に創業した大倉製糸新発田工場の跡地である。平成十八年(2006)にここに病院が出来て、隣接地が公園として整備されると、大倉喜八郎の胸像も移設された。

(大倉喜八郎生誕地)


郷土の偉大な実業家 大倉喜八郎生誕地


大倉喜八郎生誕地

大倉財閥の始祖、大倉喜八郎は天保八年(1837)新発田に生まれた。
安政元年(1854)、両親の反対を押し切って江戸に出て、上野広小路に魚店を開き、ついで神田に鉄砲店を開いた。戊辰戦争では新政府軍に兵器を販売して、巨利を獲得した。維新後は陸軍の御用達、政府の御用商人として台湾出兵、西南戦争、日清日露戦争を通じて巨富を重ね、土建業大倉組その他各種の事業を興し、朝鮮、中国にも進出して大倉財閥を築きあげた。明治の代表的政商の一人である。昭和三年(1928)、九十二歳で死去。墓は江戸護国寺にある。


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