(統国寺)
長涯間先生之墓
統国寺を再訪。墓地にある間長涯重富の墓を訪ねた。
間長涯は江戸中期の暦学者・天文学者である。宝暦六年(1756)、代々長堀で質屋を営む十一屋の六男として生まれた。名は重富、号は長涯、通称は五郎兵衛。麻田剛立から天文学を学び、特に観測技術面で才能を発揮し、垂揺球儀をはじめ多くの観測機器を考案・改良し、また私財を投じて工人を養成して機器の製作にあたらせた。寛政7年(1895)、幕府の改暦にあたり、高橋東岡(至時)とともに師の剛立から推薦され、江戸に行って三年で寛政暦を完成させた。その功によって幕府から直参にとりたてられようとしたが、これを辞退して帰坂。家業も大事にし、十一屋を繁盛させた。また、才能のある者、学問に熱心な人への援助を惜しまず、橋本宗吉や山片蟠桃らを育て、多くの学者たちと交流して、医学・蘭学・経済学など多方面にわたって貢献した。文化十三年(1816)、六十歳で没。

長涯間先生之墓
統国寺を再訪。墓地にある間長涯重富の墓を訪ねた。
間長涯は江戸中期の暦学者・天文学者である。宝暦六年(1756)、代々長堀で質屋を営む十一屋の六男として生まれた。名は重富、号は長涯、通称は五郎兵衛。麻田剛立から天文学を学び、特に観測技術面で才能を発揮し、垂揺球儀をはじめ多くの観測機器を考案・改良し、また私財を投じて工人を養成して機器の製作にあたらせた。寛政7年(1895)、幕府の改暦にあたり、高橋東岡(至時)とともに師の剛立から推薦され、江戸に行って三年で寛政暦を完成させた。その功によって幕府から直参にとりたてられようとしたが、これを辞退して帰坂。家業も大事にし、十一屋を繁盛させた。また、才能のある者、学問に熱心な人への援助を惜しまず、橋本宗吉や山片蟠桃らを育て、多くの学者たちと交流して、医学・蘭学・経済学など多方面にわたって貢献した。文化十三年(1816)、六十歳で没。
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