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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

守口

2025年04月05日 | 大阪府

(来迎寺)

 

佐太陣屋跡

 

 佐太地区は、京都・大阪間の交通・軍事の要地であったことから、美濃国加納藩(三万二千石)の永井氏が、貞享年間(1684~1688)に渚(現・枚方市御殿山)からこの地に陣屋を移し、摂津・河内の一万二千石を領有支配した。この陣屋は、加納藩の大阪における蔵屋敷の役割を果たし、年貢米の納入のみならず、加納藩の特産物である提灯・傘等もここに一旦集積して、大阪の町人に売りさばき、金融や物資の調達などの役割を担っていた。

 

(佐太天神宮)

 地下鉄大日駅で下車して、寝屋川市駅行きのバスに乗って三つ目のバス停が佐太天神前である。そこから歩いて数分で佐太天神宮に行き着く。

 

佐太天神宮

 

明治天皇駐輦遺趾

 

 慶應四年(1868)三月二十二日、明治天皇が大阪に行幸の途中、佐太を通過した際、佐太天神宮を参拝したことを記念したものである。当時玉座として使用された畳は、当神社の神庫に所蔵されている。従二位伯爵清閑寺経房の書。

 

豪商淀屋寄進の石井筒

 

 境内には豪商淀屋が寄進した石井筒がある。慶安三年(1650)二月、淀屋四代目三郎右衛門重當によって寄進されたもの。重當は、淀城主永井尚政により拝殿造営にも願主となって協力している。

 

(盛泉寺)

 

盛泉寺

 

明治天皇聖蹟

 

 大久保利通は人心を一新するため大阪遷都の急務であることを進言した。岩倉具視は公卿がこれに異議を唱えることは必然と考え、表向きは大阪親征の行事として、遷都の意思を隠して行われた。慶應四年(1868)三月二十二日、明治天皇の大阪行幸の際、盛泉寺(じょうせんじ)本堂前に賢所(神鏡を祀る場所)が設けられた。

 

内侍所之跡

 

 題字は松方正義。役目を終えた内侍所は淀川の河原で焼却され、その灰が建物跡に埋められたという。

 

 盛泉寺の樹林は、松、銀杏、楠などの大木で構成されている。古いものは樹齢四百年を超えると推定されている。

 

八重桜

 

(難宗寺)

 

難宗寺

 

 難宗寺本堂は元和元年(1615)兵火によって焼失し、寛永十年(1679)再建されたが、その後、度重なる風水害により朽廃したため、文化四年(1807)に再々建されたのが現在の本堂である。

 境内には樹齢四百年と推定される大イチョウがある。樹高は二十五メートルを超え、幹の直径は一・五メートルに及ぶ大木である。

 

明治大帝聖蹟(題字は松方正義)

 

難宗寺のイチョウ

 

御行在所

御仮泊所

 

 寺の外壁沿いに二つの碑が建っている。左側の御仮泊所碑は、大正天皇の滞在を記念したもの。

 

(守口宿本陣跡)

難宗寺近くの駐車場の前に「守口宿本陣」を示す駒札が建てられている。

 

守口宿本陣跡

 

 守口は元和二年(1616)に東海道の宿場となった。守口は枚方・大阪への人馬継立や荷物の受け渡し場所であり、街道の幅は二間半(約四・六メートル)と定められていたが、守口宿では十五メートルもあった。明治五年(1872)に廃止された。

 

(マグドナルド一号線守口店)

 

大塩平八郎ゆかりの書院

門弟 白井孝右衛門屋敷跡

 

 マクドナルド一号線守口店のある場所には、かつて守口町の豪農として知られた白井孝右衛門の邸宅があった。

 白井孝右衛門は、大塩平八郎の私塾洗心洞の有力門人として経済的な支援を行っており、門弟の中心的な人物であった。大塩は、この白井家の建物内の一室で守口近郷の農民たちに講義したと伝えられる。

 

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