(河合寺)
河合寺
河内長野の河合寺に、天誅組に参加した長野一郎(吉井儀三)、東条昇之助、吉年米蔵の墓があるというので、河内長野を再訪した。事前に河合寺の墓地は、近くの河南東山墓地に集約されているという情報を得ていたので、河南東山墓地を徹底的に歩いたが、到頭見つけることはできなかった。山頂近くに吉年家や吉井家の墓所はあったので、それらしい匂いは検知したのだが、力及ばなかった。
(明忍寺)
明忍寺
電車の駅でいうと河内長野駅から一つ大阪寄りの南海電鉄の千代田駅が最寄りとなる。歩いて十分ほどで明忍寺に行き当たる。
この寺の裏山に天誅組吉川治太夫の墓がある。が、墓地への道が見当たらない。一旦、境内を出て団地側から進入を試みたが、鉄柵と鉄条壕で厳重に囲われていて、わずかな隙さえ見出すことはできない。再度、明忍寺境内に戻ったところで、住持さんと出会ったので、事情を話して墓地への行き方を教えていただいた。墓地へは境内から径が通じており、突き当りを左に折れると、二段に分れた墓地がある。吉川治太夫の墓は、下段の奥の列、一番右側にある。
秋雲院道悟日定居士(吉川治太夫墓)
右側面には「文久三癸亥年九月三日没 神戸藩俗名吉川治太夫墓」とある。
吉川治太夫は神戸藩士。文化六年(1809)の生まれ。十五歳にして藩主に認められ、聴番・茶番として近侍した。天保六年(1835)、中小姓本席、同八年(1837)、侍読、さらに小姓、代官役、馬廻役を歴任し、万延元年(1860)、藩校教倫堂の教授などを経て、文久元年(1861)、河内錦部郡長野の代官となった。文久三年(1863)、配下の庄屋吉年米蔵、医者吉井儀蔵(長野一郎)らに働きかけ天誅組に参加すると、金穀の調達のほか、軍資金の一部を代官所から引き出して支援した。吉年米蔵の狭山藩による逮捕を防ぐため尽力したことが露顕し、召喚されたところ、同年九月、自刃。五十五歳。
河合寺
河内長野の河合寺に、天誅組に参加した長野一郎(吉井儀三)、東条昇之助、吉年米蔵の墓があるというので、河内長野を再訪した。事前に河合寺の墓地は、近くの河南東山墓地に集約されているという情報を得ていたので、河南東山墓地を徹底的に歩いたが、到頭見つけることはできなかった。山頂近くに吉年家や吉井家の墓所はあったので、それらしい匂いは検知したのだが、力及ばなかった。
(明忍寺)
明忍寺
電車の駅でいうと河内長野駅から一つ大阪寄りの南海電鉄の千代田駅が最寄りとなる。歩いて十分ほどで明忍寺に行き当たる。
この寺の裏山に天誅組吉川治太夫の墓がある。が、墓地への道が見当たらない。一旦、境内を出て団地側から進入を試みたが、鉄柵と鉄条壕で厳重に囲われていて、わずかな隙さえ見出すことはできない。再度、明忍寺境内に戻ったところで、住持さんと出会ったので、事情を話して墓地への行き方を教えていただいた。墓地へは境内から径が通じており、突き当りを左に折れると、二段に分れた墓地がある。吉川治太夫の墓は、下段の奥の列、一番右側にある。
秋雲院道悟日定居士(吉川治太夫墓)
右側面には「文久三癸亥年九月三日没 神戸藩俗名吉川治太夫墓」とある。
吉川治太夫は神戸藩士。文化六年(1809)の生まれ。十五歳にして藩主に認められ、聴番・茶番として近侍した。天保六年(1835)、中小姓本席、同八年(1837)、侍読、さらに小姓、代官役、馬廻役を歴任し、万延元年(1860)、藩校教倫堂の教授などを経て、文久元年(1861)、河内錦部郡長野の代官となった。文久三年(1863)、配下の庄屋吉年米蔵、医者吉井儀蔵(長野一郎)らに働きかけ天誅組に参加すると、金穀の調達のほか、軍資金の一部を代官所から引き出して支援した。吉年米蔵の狭山藩による逮捕を防ぐため尽力したことが露顕し、召喚されたところ、同年九月、自刃。五十五歳。