史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水戸 城東

2009年08月01日 | 茨城県
(神勢館五町矢場跡)


神勢館五町矢場跡

 神勢館は、徳川斉昭の命により嘉永六年(1853)開かれた製砲所兼射的場である。
 元治元年(1864)八月、宍戸藩主松平頼徳率いる大発勢は、那珂川を遡って神勢館に入った。頼徳は水戸城入城のため使者を送ったが拒絶された。水戸城側の市川三左衛門らは、ただちに神勢館に向けて砲撃を始めた。大発勢も反撃を開始し、戦闘は三日間に及んだ。神勢館は全焼し、大発勢は那珂湊方面に撤退することになった。矢場(大砲の標的)は取り壊しを逃れて昭和まで残っていたが、度重なる那珂川の氾濫のため堤防を造ることになり、姿を消した。

(赤沼牢屋敷跡)


赤沼牢屋敷跡


霊魂碑

 水戸領内には、牢獄がいくつか置かれた。赤沼牢もその一つである。揚屋、大牢、新牢、つめ牢の四棟から成り、幕末には藩内抗争の結果、多くの士がこの地で処刑された。
 天狗党の乱が敦賀で終焉を迎えると、諸生党首領の市川三左衛門は、天狗党の家族の処刑を命じた。妻とき(四十八歳)、子桃丸(九歳)、金吉(三歳)。長男彦衛門の子三郎(十二歳)、金四郎(十歳)、熊五郎(八歳)は、いずれも死罪。耕雲斎の娘や妾、彦衛門の妻などは永牢に処された。三歳の金吉は、獄吏の膝下に組み敷かれて刺殺されたという。彼らの首は、市中を引き回しの上、吉田原で晒されたという。あまりに過酷な処分に、天狗党残党の恨みと怒りは地下深く鬱積し、これが明治を迎えたとき、極端な報復措置へと繋がったのである。

(銷魂橋)


銷魂橋(たまげばし)高札場跡

 本町一丁目の備前堀にかかる銷魂橋は、水戸街道の起点であり、水戸城への出入口に当たる。水戸を離れる人がこの場で別れを惜しんだことから、徳川光圀が銷魂橋と名付けたという。
 元治元年(1864)八月、松平頼徳の大発勢が水戸城に迫ると、水戸城側の諸生党は銷魂橋付近に大砲を据えて、大発勢をに向けて砲撃した。


銷魂橋

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