史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

臼杵

2022年08月06日 | 大分県

(臼杵城跡)

 臼杵城は、丹生島と呼ばれる小高い丘の上に築城されている。築城は、有名な大友宗麟。永禄五年(1562)に丹生島城が築かれた当時は、この山は文字とおりの島で、四方を臼杵湾の白波に洗われる要害であったが、今はすっかり周囲を埋め立てられて島の面影はない。

 関ヶ原の戦いの直後、美濃から稲葉貞通が臼杵五万石に封じられて以降、稲葉氏十五代の居城となり、明治維新に及んだ。

 城跡は現在臼杵城跡公園となっているが、本丸跡、二の丸跡、卯寅口門脇櫓などが遺存している。

 

大門櫓

 

臼杵城石垣

 

臼杵城から市街を見下ろす

 

勤皇臼杵隊之碑

 

 この碑は、西南戦争において、郷土を守るために薩軍と戦い、その進撃を阻み敗走させたものの、臼杵における戦いにおいて命を落とした臼杵隊士四十三名の功績を永く伝えるために建てられたものである。

 明治十年(1877)六月一日、臼杵に侵攻してきた薩軍は約三千。これを迎え撃った臼杵隊は七百八十五人。来援の警視隊百名と合わせても、薩軍の三分の一に満たない人数であった。

 

野中蘭畹顕彰碑

 

 野中蘭畹(らんえん)は、藩校学古館の教授として子弟の教育にあたり、人材の育成に努めた。天保二年(1831)、現・大分市戸次本町に生まれ、十五歳の時、日出の帆足万里に師事し教えを受けた。その後、臼杵の海添に謀道館と称する私塾を開き、漢文をはじめ、語学、算術、習字などを教えた。のちに藩校の教授として招かれた。明治四年(1871)の廃藩置県後は、松方正義の知遇を得て、大蔵省に入り、明治二十一年(1889)、東京で没した。

 

(臼杵護国神社)

 

臼杵護国神社

 

 臼杵城跡には、臼杵護国神社が鎮座している。西南戦争以来の臼杵藩の戦死者を祀っている。

 

故臼杵藩大夫邨瀬君政績碑

 

 村瀬君政績碑は、天保二年(1831)、臼杵藩の藩制改革の総元締に抜擢され、藩財政の建て直しを成功させた村瀬庄兵衛通吉の功績を永く讃えるために建てられたものである。この碑には、当時藩が多額の借金を抱え、赤字財政に困窮し、その建て直しを迫られていた時、担当責任者として抜擢された村瀬が、「量入制出」の制度を採り入れ、無駄を省き、殖産に力を注ぎ、財政再建に努めたこと、さらに学古館や講武場を設けて、学問や武技を習わせ、人材育成に努めたことなどが記されている。村瀬通吉の菩提寺である月桂寺にも同じ表題の石碑があるが、碑文が同一なのかというところまでは確認できていない。

 

(大橋寺)

 

大橋寺

 

大橋寺は、西南戦争時、救護所、警視隊本陣跡として使用された。西南戦争による弾痕が残されているというが、探しても見つからず。墓地には、西南戦争で戦死した藤丸警部の墓があり、また高麗門前には、佐賀の乱の殉職者の供養塔が建てられている。

 

藤丸宗造警部之墓

左の白い墓石は息子の藤丸歩兵大尉のもの

 

 藤丸宗造は、弘化二年(1845)、臼杵町海添で生誕した。明治十年(1877)の西南戦争では、当時重岡警察分隊長であった藤丸は、薩軍が延岡から重岡に侵入すると、直ちに敵情を熊本鎮台に報告した。そののち、竹田地方の敵情探索中に捕らえられ、強く降伏を勧められたが、「捕らえらるるは命なり。降らざるは義なり。唯一死あるのみ。余は、大分県警部を奉ずる。請う死せん。」と従容として刃を受けた。享年三十二。

 息子の同名藤丸宗造も陸軍歩兵大尉として日露戦争に従軍して戦死し、父とともに臼杵護国神社に祀られている。

 

敵愾三士之碑

 

 大橋寺高麗門前にある佐賀の乱の殉職者供養塔である。

 

(月桂寺)

 月桂寺は、歴代臼杵藩主稲葉氏の菩提寺であり、藩の天保の改革を主導した村瀬通吉の墓がある。

 

月桂寺

 

故臼杵藩大夫邨瀬君政績碑

 

賢相元國居士(村瀬通吉の墓)

 

 村瀬通吉(みちよし)は、天明三年(1783)の生まれ。通吉は諱。通称は庄兵衛。臼杵藩は享保の頃から財政不如意だったが、従一大藩主稲葉雍通は隠居ののち、天保二年(1831)、幕府の改革により総役所を設け、家老村瀬通吉を総元締に任じた。通吉は、行政刷新、借財整理、緊縮励行、藩政振興を目標に、天保四年(1833)から借財整理を始め、弘化二年(1845)に完済した。天保十三年(1842)、服色制を定め、弘化二年(1845)より実施。天保九年、十二年(1838、1841)、新地を開き、天保十三年(1842)文武館を設け藩士の教育を強化した。この功により天保七年(1836)、二百石の加増を受け、天保九年(1838)、諱一字を賜り通吉と改めた。弘化二年(1845)、引退。文久二年(1862)、年八十で没。

 

稲葉通廣以降之墓

 

 稲葉通廣は、三代藩主一通の息。四代藩主信通の弟である。

 幕末の臼杵藩主は、十五代稲葉久通。異国船に備えるために台場を設け海防に努めた。維新後は、藩知事となった。明治二十六年(1893)、年五十一で没。

 

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