史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

竹田 Ⅳ

2022年07月23日 | 大分県

(岡城跡)

 今回の大分県・宮崎県の旅では、臼杵城、佐伯城、飫肥城など複数の城址を巡ることになったが、もっとも感銘を受けたのが、岡城であった。

 岡城は、稲葉川と大野川に挟まれた断崖絶壁に構築された「難攻不落の城」である。岡城は、兄である源頼朝に追われた義経を迎えるために、文治元年(1185)に緒方三郎惟栄が築城したという伝説から始まる。

 戦国時代には、豊後の大友氏の一族である志賀氏の居城であったが、天正十四年(1586)、島津義弘率いる大軍の三度にわたる猛攻に耐え、「難攻不落の城」という名を高めた。

 江戸時代に入ると、中川氏が岡城の城主となり、明治四年(1871)の廃藩置県により城を去るまでの二百七十七年間、中川氏の居城であった。中川氏の時代に岡城は改修を加えられ、要害堅固な地形を活かした総石垣の広大な近世城郭へと変貌した。

 明治七年(1874)、役目を終えた岡城の建造物は石垣を除いて取り壊され、現在見るように石垣のみが残る城跡となった。

 

史蹟 岡城阯

 

岡城跡

 

 建造物が一切残っていないのは寂しいが、標高三百二十五メートルの断崖に残る石垣だけでも一見の価値がある。本丸跡や家老但見屋敷跡から見る風景はまさに絶景である。感心したのは、高い石垣の上に落下防止の柵が一切設置されていないことである。転落したらケガでは済まないような高さなので、管理する側としては柵を設置したくなりそうなものだが、景観と眺望を重視した結果なのか、柵のようなものは見当たらない。

 

岡城跡

 

大野川

 

蕃山先生頌徳碑

 

 三の丸跡に熊沢蕃山の頌徳碑がある。熊沢蕃山は、備前岡山の儒学者である。三代藩主中川久清によって招かれ、治山治水の指導をした。さらに今日も残る城原井路(現・竹田市)の工事についても助言を与え、三宅山の植林にも携わった。この時、藩主も藩士とともに蕃山の講義を聴講したと伝えられている。

 

滝廉太郎像

 

 この城を全国的に有名にしたのが、竹田出身の作曲家滝廉太郎の「荒城の月」であることは論をまたないだろう。二の丸跡に滝廉太郎像が置かれている。直入郡高等小学校の同窓であった朝倉文夫の作。

 滝廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、名曲「荒城の月」の作曲に繋がったといわれる。明治三十四年(1901)の作曲・発表。

 

小河一敏翁之碑

 

 岡城三の丸跡にも小河一敏の顕彰碑がある。これで大阪府羽曳野市にある記念碑と合わせて、全国三ヶ所にある小河一敏の顕彰碑をコンプリートすることができた。人知れず満足。

 

(騎牟礼城跡)

 国道442号線沿いに駐車場があり、その近くに騎牟礼城跡に登る入口がある。行ってみれば分かるが、何も駐車場に自動車を停めなくても、山頂近くまで自動車で行くことができる。

 騎牟礼城の歴史は古く、久安二年(1150)というから、今から九百年近くも前のことになる。城跡といっても、何もない空間が広がっているだけであるが、この地は阿蘇方面から竹田を経て大分県内に進入する経路上に位置し、防御を考えると重要な拠点であった。西南戦争でも薩軍の重要な陣地となった。

 

騎牟礼城跡

 

 明治七年(1874)の佐賀の乱に出陣して戦死した岡藩士石川政夫(忠魂碑には政男となっている)の忠魂碑がある。

 

石川政夫忠魂碑

 

(満徳寺)

 雲華上人は、安永二年(1773)、豊後国直入郡豊岡村(現・竹田市)の満徳寺の寺主十四代円寧の二男に生まれた。その後、雲華は、豊前中津藩の名刹正行寺の法嗣として迎えられた。

 

満徳寺

 

(小畔定太郎戦没地)

 

小畔定太郎戦歿地

 

 小畔(おばた)定太郎は、新潟県長岡市出身で警視隊の一員として従軍し、明治十年(1877)五月二十七日の戦闘で戦死した。この石碑は長岡藩十五代当主牧野忠篤の筆。

 

(西光寺)

 

西光寺

 

 西光寺本堂前に西南戦争で殉職した藤丸宗造警部の像が建てられている。像の作者は、朝倉文夫である。

 

藤丸警部像

 

 藤丸警部は、臼杵出身。当時佐伯警察署の重岡分署長であった。薩摩軍が大分県へ進入すると、竹田署や熊本の政府軍に通報し、竹田地方における薩摩軍の動きを偵察していたところを薩軍に捕らえられた。明治十年(1877)五月二十三日、政府軍が竹田に迫ると、下木河原で斬殺された。西光寺の門前を流れる稲葉川の川原には、その場所に石が置かれている。

 その一部始終を見ていた西光寺第十九世孤松上人は、その霊を懇ろに弔った。以後、毎年五月二十三日には、西光寺に関係者が集まり、慰霊法要が開かれている。

 西光寺本堂内には、藤丸警部の最期の場面を直接見ていた人々から話を聞いた深沢画伯により描かれた殉職最後の想像画が保存されている。

 

(藤丸警部殉職之地碑)

 

稲葉川

 

 西光寺前を流れる稲葉川の川原に藤丸警部殉職之地碑が建てられている。碑というより川原石である。

 

藤丸警部殉職之地碑

 

 この時、藤丸警部は、「魂魄となって空中に遺り人民保護」と叫び、三十三歳の人生を閉じた。

 

(一事稲荷神社)

 

一事稲荷神社

 

就義碑

 

西光寺に隣接する一事主神社の前には、藤丸警部が亡くなって十年以上経って、町内有志によって建立された就義碑(藤丸警部顕彰碑)が建てられた。

 

(碧雲寺)

 

碧雲寺

 

 碧雲寺は、岡藩主の菩提寺である。本堂の左に庫裡、庫裡に接して書院を設け、それぞれの建物が廊下で結ばれていた。本堂と庫裡の間に玄関があり、本堂の右手には廊下で繋がった四間×九間の長い建物(僧堂)があった。その僧堂の北側に隣接して禅堂があった。現在はそのほとんどを失っているが、今も「おたまや公園」と呼ばれる空間に中川家墓所が置かれている。

 

中川家

 

 傍らの墓誌によると、平成二十一年(2009)三月、中川家十八代当主中川久定氏により、青山霊園20号1種ロ28側2に所在した中川家墓地より、十六代当主久任以下六遺骨が改装されている。

 

角田九華墓

 

 角田九華(つのだきゅうか)の墓である。

 角田九華は、天明四年(1784)の生まれ。岡藩大阪藩邸に生まれたが、孤児となり、富商升屋小左衛門が資金を出し、中井竹山の門に入れ、のち岡藩医角田東水の養子となった。文化二年(1805)、二十二歳のとき、大分鶴崎の脇蘭室に学び、のち再び大阪に出て竹山につき才学大いに上った。岡に帰り下士に列し、藩校由学館の句読師、司業、侍講と進み、弘化元年(1844)、教授。上士に列した。性温厚、しかも事にあたって厳正で。天保初年藩主の田猟、散楽の遊興を諫め、弘化年間には藩主が幕府老中職を望んだことを諷諫したといわれる。安政二年(1855)、年七十二で没。

 

 竹田市内探索は以上となる。「また来たい」と思わせる魅力的な街であった。

 

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
小畔定太郎戦歿地 (Unknown)
2024-03-25 14:40:45
質問失礼いたします
小畔定太郎戦歿地は竹田市のどの辺りにあるものでしょうか?
小畔定太郎戦没地 (Unknown)
2024-03-25 22:26:34
下記の住所を参照ください。

竹田市会々1197
Unknown (Unknown)
2024-03-26 12:27:32
ありがとうございます!

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