(大原ツツジ公園)
西南戦役激戦之跡
斜面に隙間なくツツジが植えられたこの場所は、大原ツツジ公園と呼ばれる。ツツジの季節にはきっと一面のツツジを楽しむことができるだろうが、私が訪れたときはまだ一分咲きといったところであった。
ツツジ公園のある三重町は、やはり西南戦争で激戦が交わされた場所である。眼下を流れる三重川のほとりに「激戦之跡碑」が建てられている。
また、ツツジの中に西南戦争慰霊碑が建てられている。台座には、戦没者四十六名の氏名が刻まれている。
西南役戦没者 慰霊碑
三重が激戦地となったのは、明治十年(1877)五月三十一日。隊長村田成禮以下三十四名が戦死。さらに六月十七日、三国峠の戦いでは、守備隊長山田宗賢以下十二名が散華している。
(三国峠)
三国峠からの眺望
三国峠は、岡、臼杵、佐伯三藩にまたがる峠であったために、三国峠と命名された。祖母山、傾山、阿蘇をのぞむ景勝地である。眼下を見下ろすと、今走ってきた道が遠くに見える。どこも賑わうGWであるが、下界とは別世界の人影のない場所である。
明治十年(1877)、西郷軍は三国峠、旗返峠の天然の要害に拠って官軍に激しく抵抗した。しかし、六月十七日、官軍の猛攻を支えきれず、戦死者の遺体を残して、小野市、重岡方面に退却した。
三国峠
この場所で戦死した飫肥隊分隊長山田宗賢以下十一名の墓である。
日向飫肥士族十一名之墓
西南役三国峠薩軍飫肥士隊戦死者之碑
山田宗賢墓
少し離れた藪の中に山田宗賢の墓がある。木柱には「薩軍」とあるが、党薩隊の一つ飫肥隊の分隊長である。
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