(佐伯城三の丸櫓門)
佐伯城三の丸櫓門
佐伯城登城には、佐伯市歴史資料館の広い駐車場に自動車を停めるのが便利である。駐車場に近接して三の丸楼門がある。三の丸楼門は、寛永十四年(1637)、三代藩主毛利高直の時に創建し、同時に藩政の場を山頂から麓の三の丸に移した。
(佐伯城跡)
佐伯城跡 廊下橋
佐伯城本丸へは、藩政時代から続く「登城の道」、「独歩碑の道」という二つの道がある。私は、時間を優先して「登城の道」を選んだが、あまりの急坂に息が切れた。徒歩で十五分くらいのものであるが、私には標高六百メートルの高尾山よりきつく感じた。体力に自信のない方は、多少遠回りになるかもしれないが、独歩碑の道をお勧めする。たぶん登城時間は五分くらいしか変わらないと思われる。
佐伯城は、慶長六年(1601)、日田から佐伯に入部した佐伯藩主毛利高政が新たな居城の建設を考え、番匠川沿いにあって水上交通に便利で、しかも守り易く攻め難い地形であった、高さ百四十四メートルの八幡山に四年の歳月をかけて築いた山城である。
山頂城郭は、本丸を中心に、西南に二の丸、西出丸、東北に北出丸と、鶴が翼を広げた姿を連想させるため、別名「鶴屋城」または「鶴城」とも呼ばれた。
廊下橋は、本丸と二の丸を繋ぐ橋である。有事の際には、廊下橋を落として敵の侵入を阻止することになっていた。「堅固で実践的」と評される佐伯城を象徴する施設である。
佐伯城 天守台跡
佐伯城には、三重三階で南向けの天守閣があったとされる。しかし、築城後程なく失われ、再建されることもなかったため、今となっては詳細不明である。
高さ百四十メートルの山頂から人口約五万人の佐伯市街や豊南の山々や番匠川の流れを見渡すことができる。晴れていれば、四国の山々まで見えるという。ここに来るまでの苦労が吹き飛ぶほどの眺望である。
佐伯城跡
(国木田独歩館)
この建物は、明治二十六年(1893)から翌年まで、国木田独歩と弟収二が下宿した坂本永年邸である。坂本永年は、独歩が教師として勤めた鶴谷学館の館長であり、公私ともに面倒を見ていた。独歩は主屋の二階に起居し、裏山にあたる城山の山頂まで散歩することも多かったという。佐伯と独歩の関わりを、彼の過ごした坂本邸で紹介するために建物を修復し、国木田独歩館として公開された。
御浜御殿
国木田独歩館の展示
国木田独歩館は、観覧料大人二百円、小中高生は五十円。主屋と土蔵に別れ、それぞれ一階二階に展示室が設けられている。
国木田独歩は、明治四年(1871)、千葉県銚子市の生まれ。従軍記者を経て、雑誌編集などに従事し、「武蔵野」「忘れえぬ人々」「欺かざるの記」などの名作を残した。明治四十一年(1908)、病死。個人的には、富永有隣をモデルとした「富岡先生」の作者として強く印象に残っている。
(養賢寺)
佐伯城三の丸櫓門から国木田独歩館を経て養徳寺に至る七百メートルほどの道は、「歴史と文化の道」と呼ばれ、白い土塀に囲まれた武家屋敷跡を見ながら歩くのは至福の時である。
その行き当りが毛利家の菩提寺である養賢寺である。養賢寺は、慶長十年(1606)、藩祖毛利高政によって創建された。墓地には、毛利家歴代の墓地があり、歴代の藩主やその夫人、子供の五輪塔形式の墓石が整然と並んでいる。
毛利家は、慶長六年(1601)以来、明治四年(1871)の廃藩置県まで、十二代二百六十九年に渡り、佐伯二万石の藩政に当たった。
養賢寺毛利家墓所には、藩祖高政の霊廟のほか、歴代藩主の藩主らの墓が並んでいる。
幕末の藩主は、毛利高泰。文化十二年(1815)に藩主高翰(たかなか)の子に生まれた。天保三年(1832)、藩主となり、天保六年(1835)、魚市場を設け、藩の利益を高めた。天保八年(1837)には藩内九十歳以上の者に米一俵を与えたり、嘉永六年(1853)の大地震の際には、市民を城中に入れて救済したり、常に領民の生活に意を用いた。安政に至り、兵備を改めようとして、安政二年(1855)、中村に騎射の教練等を行った。また同年井上庸春をして藩内に種痘を行わせた。文久元年(1861)、古賀親教の勧めにより養蚕を奨励させた。明治二年(1869)、年五十五で没。
養賢寺
毛利家歴代墓地
(佐伯(岡の谷)招魂場)
臼坪岡の谷の日豊本線の踏切を横断すると、岡谷招魂社(佐伯招魂社)がある。西南戦争で戦死した軍人、軍夫百三十四柱と警察官十四柱が祀られている。
佐伯招魂社に足を踏み入れた瞬間、そこにいたタヌキが驚いて立ち去った。人里に近い場所で普通にタヌキが出現するのは、さすがに九州だとどうでも良いところで感心した。
佐伯招魂社
敵愾碑
敵愾碑を中心に百四十八基の墓石が並ぶ。敵愾碑は秋月新太郎(佐伯出身の政治家、自身も西南戦争に征討軍団書記官として従軍)の書。有栖川熾仁親王の篆額。建碑は明治十九年(1886)五月。
警察官の墓
佐伯招魂社
東京警視萩原隊戦死之碑
警察官墓地の傍らにある東京警視萩原隊戦死之碑は、中村正直撰文、大庭永成の書。建立は明治十一年(1878)十月。
碑文によれば、大分と宮崎の県境で、五十三名の死者と百二十一名の負傷者が続出したことが記載されている。官軍は、薩摩軍の得意とする白兵戦に対抗するため、剣道練達の士族を募集し、警視隊を編成した。東京警視萩原隊はその一つであり、大分・宮崎県境の山岳戦で勝利を収めた。
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