史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

都城 庄内

2022年09月03日 | 宮崎県

(庄内小学校)

 

庄内小学校

 

 庄内小学校の構内にある遺徳之碑は、三島通庸を顕彰するものである。

 三島通庸は、鹿児島に生まれ、明治二年(1869)九月、三十四歳のとき、都城地頭として赴任したが、旧領主を慕う領民の反感を受けたため、この庄内に地頭館を置いて行政の任に当たった。まず行政区画を上荘内郷(庄内)、下荘内郷(都城)、梶山(三股)の三郷に改め、旧郷の耕地を総割り替えして暮らしの安定を図った。ついで安永の麓、三股の山王原に住宅街を作り、中心となる街並みを作った。また、道路建設、堤防修築、産業、教育の振興に力を注ぐとともに、石峯稲荷の整備を図り、母智丘(もちおか)神社と命名し、鎮守の社とするなど、領民の生活安定に尽くした。明治四年(1871)十一月、西郷隆盛の要請を受けて上京するまで僅か二年余りの在任であったが、その業績は今日の地域発展の基盤となっている。

 

遺徳之碑(三島通庸顕彰碑)

 

(南洲神社)

 

南洲神社

 

 庄内の南洲神社は、西南戦争から五十周年にあたる昭和二年(1927)、庄内町を中心とした、旧庄内郷関係者に、西郷南洲の遺徳をしのび、合わせて翁と死をともにした旧庄内郷戦没者の霊を祀り、これを後世に伝えようという機運がたかまった。これを受けて、重軍関係者や有志の協議で浄財を募り、神社を創建することになった。折から、諏訪神社の改築があり、古い社を譲り受け、この地に社殿を竣工させた。鹿児島の南洲神社に分霊を請願して、昭和四年(1929)、遷座が行われた。昭和五十三年(1978)に失火により社殿が焼失し、現在の社殿は昭和五十五年(1980)に再建されたものである。

 南洲神社に祭祀されているのは、庄内郷戦没者五十六名である。

 

明治丁丑之役従軍記念碑

 

 境内には記念碑と招魂碑が並べて建てられている。

 

記念碑および招魂碑

 

(関之尾滝)

 今回の五月連休中の旅では、観光スポットと呼べるような場所はほとんど行くことはなかったが、数少ない例外が関之尾の滝であった。

 関之尾滝は、大淀川の支流庄内川にあり、日本の滝百選に選ばれる名瀑である。幅四十メートル、落差十八メートルの大滝と、明治時代に岩を掘って作られた人工の滝男滝(おだき)と女滝(めだき)の三つの滝からなっている。

 

庄内川

 

関之尾滝

 

歐穴群

 

 滝の上流へ向かって二〜三分ほど歩くと、目の前に広がるのは一風変わった光景に出会う。これは「関之尾甌穴群」と呼ばれるものである。「甌穴」とは河底や河岸の岩石面上にできる円形の穴のことで、三十四万年前に加久藤火砕流でできた溶結凝灰岩層に霧島山地から清流が流れ込み、長い年月をかけて小さな石や岩石の破片が回転することによって関之尾甌穴群は形成されたという。ゴツゴツとした岩が集まったようにも見えるが、実はすべて繋がった一枚の岩盤なのである。甌穴群としての規模は世界一といわれている。

 

川上神社

 

明治二十二年(1889)、坂元源兵衛が滝上三百メートルの左岸の岩盤をくりぬくことに成功し、庄内川左岸の土地まで広く潤すことに成功した。その後、坂元源兵衛の遺志を継いだ前田正名が明治三十五年(1902)、谷頭までの通水に成功した。川上神社は、関之尾住民たちにより島津久理公、坂元源兵衛、前田正名の御霊を出水神様と一緒に祀ることとしたものである。現在の社殿は、昭和三十七年(1962)に昔から水神様の祀ってあった地に建てられた。

 

(母智丘神社)

 

母智丘神社

 

母智丘(もちお)神社は、往時よりこの場所にあったが、社殿が荒れているのを見た三島通庸が明治三年(1870)に再興した神社である。

 境内には三島通庸の名前も刻まれている上荘内郷役館の碑がある。

 

上荘内郷役館碑

 

 この石碑は、明治三年(1870)、三島の命により母智丘神社が再興された際に建てられた神社再興碑である。理由不明ながら、碑面の上半分が空白のままで、下段には地頭三島通庸以下四十三名の郷役職氏名のみが刻まれている未完の碑である。

 社殿の上の方に展望台が設けられていて、庄内の街を見渡すことができる。

 

展望台からの眺望

 

(有村次左衛門寓居の地)

 

史跡 桜田門外の変 有村次左衛門寓居の地

 

 南横市町の民家の前に有村次左衛門寓居の地と記された標柱が建てられている。

 万延元年(1860)三月三日の桜田門外の変に薩摩藩士として唯一人参加し、井伊大老の首を落とした有村次左衛門が、幼少の頃から変の前年まで父母とともに過ごした場所である。

 

 この日の史跡探訪はここまで。都城市内に戻って宿泊する。

 

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