史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

飫肥 Ⅰ

2022年09月10日 | 宮崎県

(本照寺)

 翌日、つまり今回の旅行の最終日、まだ夜の明けない五時前に起床し、ホテルをチェックアウトして、まだ暗い都城市を離れた。国道222号線をひたすら飫肥に向けて車を走らせた。前後を走る車も、すれ違う車もなく、信号もない道である。都城市街地から飫肥まで五十キロメートルほど距離があるが、一時間ほどで到着した。

 最初の目的地は本照寺である。本照寺では、落合雙石(飫肥藩藩儒・藩主侍読)の墓が目当てであったが、行ってみると本照寺は無住となっているようで、いくつか残されている墓所もほとんど手入れがされていないようである。とても落合雙石の墓を探せる状態ではなかった。気を取り直して飫肥城に引き返すことにした。

 

本照寺

 

(飫肥城跡)

 飫肥は戦国時代には代々島津一族が城主であったが、天正十五年(1587)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉によって封じられて以降、明治時代まで伊東氏の居城となった。

 

飫肥城大手門

 

 飫肥城大手門は、明治の初期に取り壊されてしまったが、昭和五十三年(1978)に飫肥城復元事業の一環として復元建設されたものである。

 

旧本丸跡

 

 飫肥城は、本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸など大小十三の曲輪や犬馬場などからなる広大な城である。現在、本丸跡には飫肥小学校があるが、かつて旧本丸には藩主の御殿が置かれていた。旧本丸は、三度の大きな地震で地割れが生じ、移転することになったという。旧本丸跡は、今飫肥杉が林立する空間となっている。全国の城跡に桜を植えている例は多いが、杉は珍しい。

 

飫肥杉

 

(豫章館)

 

豫章館

 

 豫章館は、伊東家の家臣伊東主水の屋敷だったこの地に明治二年(1869)、第十四代飫肥藩主伊東祐帰(すけより)が飫肥藩知事に任命されて城内より移り住んだ場所である。主屋は明治元年(1869)に作られた飫肥藩の典型的な武家屋敷で、邸内にあった樹齢数百年の大楠にちなんで豫章館と名付けられた。

 私が飫肥を訪ねたのは早朝六時のことだったので、当然ながら豫章館も小村寿太郎記念館も、藩校振徳堂も開館前であった。

 

(小村寿太郎生家)

 

小村寿太郎候誕生之地

 

小村壽太郎候誕生之地(東郷平八郎書)

 

 小村寿太郎は、安政二年(1855)にこの地に生まれた。父は町役人(別当職)小村寛(ひろし)で、禄高十八石の徒士席という下級武士であった。維新後、小村寛は、旧飫肥藩の専売事業を引き継いだ飫肥商社の社長に就任した。しかし、その経営を巡る裁判によって小村家は破産した。土地、建物は隣家の山本猪平に売却された。昭和八年(1933)、山本家が土地を寄附するとともに、旧飫肥藩関係者の寄附によって「小村寿太郎翁誕生之地」と刻まれた石碑が建てられた。東郷平八郎の揮毫、背面には寿太郎の友人であった杉浦重剛の詩が刻まれている。

 

 なお、小村家には文化七年(1810)四月二十七日、伊能忠敬以下十七名の幕府御用測量方が宿泊して、天文観測を行っている。

 

(旧藩校振徳堂)

 

旧藩校振徳堂

 

 飫肥藩では享和元年(1801)に学問所ができたが規模の小さいものであったが、天保元年(1830)、藩主祐相(すけとも)の時に着工し、翌年完成。藩校振徳堂として開校した。

 振徳堂の名称は、「孟子」の「又従而振徳之」の章に由来し、開校と同時に安井滄州、安井息軒父子を教授、助教に招き、高山信濃、落合雙石を助教に迎えた。

 

小村寿太郎胸像

 

小倉處平顕彰之碑

 

 振徳堂に着いた時刻はまだ朝の七時にもなっておらず、当然、振徳堂の門は固く閉ざされていた。中には入れない。望遠レンズを使って外から小村寿太郎の胸像と小倉處平顕彰碑を写真に収めるのが精一杯であった。

 

 小倉處平は、振徳堂で学んだ門下生の一人である。明治三年(1870)、文部権大丞となった處平は、貢進生制度を設け、英才を全国から集めた。生誕地は振徳堂の前の道を七〇メートルほど西へ行った突き当りにある。

 

(小村寿太郎記念館)

 

小村寿太郎記念館

 

 国際交流センター小村記念館は、平成五年(1993)一月、小村寿太郎の没後八十年を記念して開館した施設である。小村寿太郎の縁で、日南市は米国ポーツマス市(ニューハンプシャー州)と姉妹都市提携を結んでいるが、この施設の完成をきっかけにポーツマス市をはじめとした国際交流が一層推進されることになった、と説明されている。

 

(小村寿太郎生家跡)

 

小村寿太郎生家

 

小村寿太郎生家

 

 平成十六年(2004)、小村寿太郎生誕地より生家が移築されて公開されている。

 

(飫肥武家屋敷)

 

飫肥武家屋敷

 

 飫肥城大手門から伊東伝左衛門家や藩校振徳堂に至る道は、馬場通りと名付けられているが、飫肥藩士屋敷の姿を色濃く伝えている。各屋敷も一戸平均約九百坪という広さを維持している。昭和五十二年(1977)、重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けている。

 

(旧伊東伝左衛門家)

 

旧伊東伝左衛門家

 

 伊東伝左衛門家は、上級藩士の武家屋敷で、建築様式から十九世紀の建物と推定されている。庭園や石垣も往時の姿をよくとどめている。

 伊東伝左衛門家は、享保六年(1721)に家老伊東祐周の次男が分家創設した家系である。伝左衛門は、嘉永五年(1852)、江戸藩邸表役を命じられている。

 

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