史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

徳島 Ⅳ

2020年12月12日 | 香川県

(眉山公園)

 

明治天皇景仰碑

 

 標高290メートルの眉山の山頂付近に明治天皇景仰碑が建てられている。本来であれば、ここから徳島市内の眺望が楽しめるはずだが、この日は雨で視界不良であった。

 この石碑は教育勅語の渙発四十周年を記念して、昭和七年(1932)に竣工したものである。先の大戦後、碑とその周辺は荒廃がひどかったが、明治維新百周年を期して、四国放送の特別協力を得て、原型に近い状態で復元された。題字は東郷平八郎。

 下部には明治天皇が明治三十七年(1904)に詠んだ御製が刻まれている。

 

 よもの海みなはらからと思ふ世に

 など波風のたちさわぐらむ

 

明治天皇像

 

 眉山中腹には明治天皇尊像がある。

 

(眉山)

 

福浦元吉旌忠之碑

 

 福浦元吉旌忠之碑は、八幡神社の裏側、中島錫胤や蜂須賀茂韶らの石碑がある場所にある。ひと際大きな石碑なのに、前回訪問時(もう十五年以上も前になる)には写真を取り忘れていた。福浦元吉は淡路島洲本出身の商人。同じく淡路島出身の古東領左衛門に触発されて尊攘運動に奔走するようになり、文久三年(1863)の天誅組の挙兵に参加した。九月二十五日、鷲家口にて藤本鉄石とともに壮絶な死を遂げた。三十五歳。旌忠之碑は明治三十一年(1898)建立。北畠治房撰文、蜂須賀茂韶篆額。

 

水竹新井先生之碑

 

 春日神社の裏、八坂神社境内に水竹新居先生碑がある。庚午事件から四十年後に建立されたもので、水竹の事績が刻まれている。

 

(清水寺)

 

清水寺

 

 清水寺には小倉富三郎の遺髪墓があるはずだったが、残念ながら見つけられず。

 

(善学寺)

 善学寺には幕末を代表する算術家、暦学者である小出長十郎の墓があるはずだが、これも発見できず。移葬されたものと考える。

 

善学寺

 

(本福寺)

 この日は朝から雨だった。レンタカーを調達するまでの時間、駅前でレンタサイクルを借りて高松市内の寺院や墓地を回れるだけ回ろうという計画を立てていたが、この雨では断念せざるを得なかった。結局、レンタカーを手に入れてから活動スタートとなったので、一時間以上のロスであった。

それでも高松市内から東かがわ、鳴門までは順調であった。県道41号線を通って石井町東覚円に至り、そこで志摩利右衛門の墓を探したが、さっぱり見当がつかなかった。再調査して出直すしかない。

天気予報ではこの雨は午後にはやむということだったが、「当たらなくてよい予報ほど的中し、当たって欲しい予報は外れる」という法則とおり、雨はやむことがなく終日振り続けた。雨の日の史跡探索は苦痛である。カメラは濡れるし、靴の中まで水が浸入してぐちゅぐちゅになった。その上、足もとはぬかるみ、目当ての史跡や墓に行きつかないとなるとストレスがたまる一方である(八王子に戻って早速防水仕様の靴と防水スプレーを買った)。

徳島市内では眉山山頂の明治天皇景仰碑、山腹の明治天皇像や福浦元吉旌忠之碑、新居水竹碑までは予定とおり行ったが、ここから躓いた。清水寺の小倉富三郎の墓や善学寺の小出長十郎の墓は見つけられず断念。本福寺の牛田九郎の墓も、寺の立てた説明には「牛田九郎の墓」と記載されているにも関わらず、探し当てることはできなかった。隣接する東照寺で小川錦司の墓を発見するのがやっとで、日没までまだ時間はあったがここで気力が果ててしまった。いずれ徳島は天気の良い日に再挑戦せねばなるまい。

 

本福寺

 

牛田九郎と下条勘兵衛は、明治三年(1870)の庚午事変の際、徳島藩兵が美馬の稲田家を襲おうとするのを名西郡下浦まで追い、中止を説得したが、藩兵側はなかなか応じない。二人はその場で屠腹して説得しようやく藩兵は引き返した。

 

(東照寺)

 小川錦司は徳島藩士。明治三年(1870)の庚午事変で稲田家襲撃に関与したため同年九月蓮花寺にて切腹を命じられた。十八歳という若さであった。

 

東照寺

 

小川錦司民金

 

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