史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

高松 Ⅲ

2020年12月12日 | 香川県

(円座町)

 

小橋家墓地

 

 円座町の田んぼの真ん中に勤王一家小橋家の墓がある。

 

贈正五位 香水小橋先生之墓

 

 小橋安蔵は文化五年(1808)の生まれ。父は儒医小橋道寧といった。香水は号。八歳で大内郡南野村に出て伊藤弘に漢書、算術を修めた。十八歳で父を失ったが、大阪に出て篠崎小竹、後藤松陰らを訪い、また江戸に遊んで古賀侗庵、藤森弘庵、大槻磐渓に学んだ。弘化三年(1846)、再び江戸に出て米艦渡来の状を詳らかにして国防の急務を覚り、奮然として国事に尽くそうとし、翌年高松藩に戻り、貧民の救恤、海防について上書したが、斥けられた。安政元年(1854)、越後の長谷川鉄之進が来り、ともに義挙を企てて軍資器物の調達にあたった。やがて子の友之輔が江戸から帰ると、太田次郎、村岡宗四郎らに軍器調製を担当させた。文久三年(1863)八月、大和行幸を聞き、兵器弾薬を整えて一族と丸亀を発しようとしたが、政変のため水泡に帰した。このとき友之輔は長州に走り、安蔵は捕らえられて兵器は没収され、翌元治元年(1864)、自宅幽閉に処され、慶応元年(1865)には友之輔の累をもって投獄された。明治元年(1868)、政府軍が高松に入るに及んで出獄した。明治五年(1872)、年六十五で没。

 

贈正五位 小橋友之輔君墓

 

 小橋安蔵は、高松藩における勤王派の中心的人物であった。松平頼該(左近)、松崎渋右衛門と親交があり、弟木内順二、小橋橘陰、妹村岡箏子とその子宗四郎、太田次郎らを尊王攘夷運動に巻き込んだ。安蔵の子、友之輔も父の影響を受けて尊王の志厚く、長州に走って元治元年(1864)の蛤御門の変に参加して戦死。十九歳であった。特旨をもって正五位を贈られた。

 

(法然寺)

 

法然寺

 

 法然寺は、建永二年(1207)、讃岐に流された浄土宗開基法然上人ゆかりの満濃町生福寺(しょうふくじ)を高松藩初代藩主松平頼重が現在地に松平家菩提寺として再興した寺院である。

 寛文八年(1668)、以前からこの地にあった勝(ちぎり)神社を現在の雌山に移し、多くの門や堂を完成させるのに三年余の歳月を費やした。今も建物には当時建てられたものが多く残っている。

 

般若台

 

 雄山山頂の般若台には初代頼重を始めとした歴代藩主、一族の墓碑が二百二十二基も立ち並び、圧巻である。

 

高松松平家墓所

 

厚徳院殿閃蓮社温誉知遠源懿大居士

(松平頼聡の墓)

 

 松平頼聡(よりとし)は天保五年(1834)の生まれ。嘉永六年(1853)、頼胤の世子となり、従四位下侍従に叙任され宮内大輔を称した。文久元年(1861)、家督を継いで讃岐守を称した。文久三年(1863)、はじめて朝覲、ついで岩清水社行幸に供奉した。元治元年(1864)七月、禁門の変に参内、御所の守衛に任じられた。ついで長州征伐の命を受けて発したが、翌慶應元年(1865)帰藩。慶應四年(1868)、鳥羽伏見の戦いでは方向を誤って官位褫奪、京都藩邸を没収されたが、翌二年(1869)には赦されて高松藩知事に任じられ、廃藩までその任にあった。明治三十六年(1903)、年七十で没。

 

正二位勲一等伯爵松平頼壽之墓

 

 松平頼壽(よりなが)は明治七年(1874)の生まれ。頼聡の八男。母は千代子(井伊直弼の娘)、妻は水戸藩主徳川昭武の娘昭子。昭和八年(1933)、貴族院副議長に就任すると、その四年後には近衛文麿総理大臣のもとで貴族院議長に就任し、昭和十九年(1944)、六十九歳で没するまでその職にあった。貴族院葬で送られている。

 

(本堯寺)

 

本堯寺

 

松平頼該霊廟

 

 円座町の本堯寺には、松平頼該(左近)の霊廟がある。

 松平頼該(よりかね)は、文化六年(1809)の生まれ。通称は左近、雅号は金岳といった。父は高松藩主松平頼儀。第三子に生まれたが、二兄が夭折したため家督を継いでもおかしくなかったが、故あって家を継がず江戸邸より香川郡宮脇村に隠退して世を避けた。藩主頼胤は頼該に廩米として千五百石を給した。弘化元年(1845)、嫡母池田氏が病むと聞くと、高松を発し江戸に至り、目黒の別邸で看病すること四か月で帰った。文武の才あり、特に仏典に精通し、宗藩水戸の徳川斉昭に傾倒して尊王の志厚く、藩士長谷川宗右衛門、松崎渋右衛門や草莽の有志、小橋安蔵、日柳燕石、藤川将監(三渓)らと声息を通じ、天下の名候、志士と交わって王事に尽瘁した。文久三年(1863)正月、藩主頼聡のために京師に至り、水戸の執政武田耕雲斎、大場弥右衛門(一真斎)らと会見し、両藩多年の紛糾を解決した。同年五月、孝明天皇は内勅を頼聡に伝え、頼該をして一藩の軍務に参与させたが、頼聡は幕府を憚って決せず、ついに素志を貫徹することができなかった。ついで八月、大和の義挙があった。頼該は同志とこれに応じようとしたが、事敗れて果たさず、翌元治元年(1864)七月、禁門の変に長州藩兵が敗走するや、桂小五郎が来て潜伏するのを庇護し、また高杉晋作、中岡慎太郎らも来讃して彼を頼った。やがて事顕れ、頼該一党は悉く捕らわれて藩獄に下り、頼該自身も海防諮問の職を辞した。慶應四年(1868)正月、鳥羽伏見において高松藩は徳川氏を助けたことをもって新政府軍の来攻にあい、藩論沸然としたが、頼該の尽力により藩論を恭順に決して兵火を免れた。同年八月、年六十にて没した。

 

 本堯寺の頼該霊廟は、木造平屋建で瓦葺き。墓のある奥殿と拝殿が相の間で繋がれる複合社殿形式で、武家の霊廟としては稀有なものである。

 

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