史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

琴平 Ⅱ

2020年12月05日 | 香川県

(敷島館)

 

敷島館

 

香川縣史趾 芳橘樓

 

 現在、金毘羅宮参道に面して「ことひら温泉 御宿敷島館」というホテルとなっているが、元「芳橘樓」と呼ばれる旅館であった。幕末には高杉晋作や坂本龍馬も芳橘樓を利用したといわれる。

 

(日柳家墓地)

 琴電榎井駅の近くに日柳家の墓地がある。ちょうどまんのう町と琴平町の境界近くであり、どちらの町に属しているのか判断がつかないが、取り敢えず琴平町としておく。

 

日柳家墓所

 

 ここには、燕石の両親、燕石、三舟(燕石の長男)ほか親族の墓が並ぶ。

 

日柳士煥爪髪瘞表(日柳燕石遺髪墓)

 

 日柳燕石は、慶応元年(1865)、捕らえられて高松の獄に投じられたが、慶応四年(1868)赦免されると直ちに京都に上って書を奉じ、ついで仁和寺宮嘉彰親王に従って越後口に出席した。しかし、永年の獄中生活で健康を損ねており、柏崎まで至ったところで病没した。五十一歳であった。柏崎招魂社に墓がある。

 

三舟先生瘞爪髪表

(日柳燕石長男三舟遺髪墓)

 

 日柳三舟は、維新後大阪に出て学務長を務め、教科書出版に尽くした。今日の教科書の原型は、三舟に始まるといわれる。明治三十六年(1903)、六十五歳にて没。大阪阿倍野墓地に墓がある。

 

(柳谷墓地)

 

美馬援造墓

 

 柳谷墓地は、見渡す限り墓石が広がる広大な墓地である。一番手前に無人の墓地管理事務所があり、その前の小径を上ってすぐ右手に美馬家の墓所があり、そこに「美馬援造」と刻まれた墓石がある。

 美馬援造は、文化九年(1812)の生まれ。雅号に桜水、土仏、君田がある。美馬君田の名の方が知られているかもしれない。幼時、郷里の願勝寺で僧となり、漢学・歴史に傾倒。また詩文、書画をたしなみ、安政元年(1854)、還俗して姓を美馬と改め、諸国を遊歴して高杉晋作や坂本龍馬らと交わった。のち讃岐琴平に移って日柳燕石、植田文郁らと交遊。勤王攘夷国事を痛論したため幕府に忌まれ、慶応元年(1865)、日柳燕石とともに捕らえられ、四年間獄中に苦しんだ。下獄すると桜水と改名した。維新後は、赦免されて琴平に学舎を開いて子弟の教育に従事した。明治七年(1874)、年六十三で没。

 

(広谷墓地)

 

野廣君之墓(野城広介の墓)

 

 今回の旅において最大の収穫は、野城広介の墓の発見であった。墓石の前の花立には「日柳燕石先生の義侠心により建立されしものなれど風雪の浸食甚だしく二〇一〇年六月改修」と記されているので、「発見」というのは少々大げさかもしれないが、広い墓地からだた一つの目的物を見出す作業は、相当の執念と偶然が重ならなければ至難の業であることは間違いない。

 広谷墓地は、龍馬像が建つ牛屋口と金毘羅宮を結ぶ伊予土佐街道に沿って作られた墓地である。金毘羅宮の参道側から向かうと電動自転車でも上れないような急坂を越えなくてはならない。墓地には見るからに古い墓石がぎっしりと並んでいる。野城広介の墓は、その一番奥(高いところ)にひっそりと建っている。

 

 野城広介は、天保十四年(1843)、上総国市原村山田橋の生まれ。平田銕胤、権田直助の門人でつとに勤王を志し、文武にも通じた。文久三年(1863)、上京して岩倉、三条両卿の内意によって活動を始めた。同志と京都等持院の足利三代の木像を梟首し、その斬奸高札を書いた。逃れて丸亀藩下に来り、同志村岡宗四郎方に潜伏した。小橋安蔵一家や日柳燕石一派と密合して長谷川鉄之進と国事を謀っていたが、同年八月親征の挙があることを聞き、これに加わるため村岡邸秘蔵の兵器火薬等を携え同志とともに上坂したが、朝議一変して親征中止となり、帰国の途次、船中にて熱病に罹り、丸亀村岡方地下室にて病没した。年二十一。

 同志は捕吏の追及を憚り、匿名して「野廣君之墓」とのみ彫した。美馬援造の揮毫。

 

(春日神社)

 呑象楼近くの春日神社には、日柳燕石の顕彰碑が建てられている。山縣有朋の篆題。大正九年(1920)十一月の建碑。

 

春日神社

 

日柳燕石翁之碑

 

(丸尾本店)

 

長谷川佐太郎旧家

 

 丸尾本店は、「凱陣」というブランドの日本酒を醸造販売しているが、長谷川佐太郎の住居跡でもある。

 

(日柳燕石生家跡)

 丸尾本店の前の道を二百メートルほど東へ行くとその突き当りが日柳燕石の生家跡である。日柳燕石は、文化十四年(1817)三月十四日の生まれ。父は質商を営む加島屋惣兵衛といった。十三歳で琴平の医者三井雪航に学び、十八歳で家に帰った。侠気をもって知られ、郷党浮浪の徒を集めてその首領となった。また勤王の志が厚く、天下の志士と交わりを結び、国事のために私財を投げ出して尽力した。

 

日柳燕石先生生家跡

 

(長谷川家墓所)

 住宅街の一画に狭い墓地があり、その真ん中に長谷川佐太郎の墓がある。

 同じ墓地に女子栄養大学の創始者香川昇三の墓もある。

 

正七位長谷川佐太郎之碑

 

慈済院釈昇導居士(香川昇三の墓)

 

 香川昇三は、明治二十八年(1895)の生まれ。東京帝国大学卒業後、母校の医局でビタミンの研究にあたり、昭和八年(1933)、妻の綾とともに自宅に家庭食養研究会(女子栄養大学の前身)を開設。栄養学の普及に努めた。昭和二十年(1945)、五十一歳にて死去。

 

(呑象楼跡)

 

呑象楼の跡

 

 現在、榎井小学校の隣にある呑象楼は移築されたもので、もとはそこから五百メートルほど西にいったJR土讃線に近いところにあった。小さな石碑が残っているのみである。

 

(興泉寺)

 

興泉寺

 

燕石ゆかりの井戸

 

 興泉寺には燕石ゆかりの井戸がある。嘉永六年(1853)、呑象楼に移り、約十二年間ここに起居した。この頃、親交のあった興泉寺十三代住職廓榮に井戸枠を贈ったとされる。井戸枠に日柳政章の刻名が見える。政章は、燕石の諱である。

 

 これでまんのう・琴平の史跡巡りは終了。当初の見込みとおり二時間半で自転車を観光案内所に返却し、次の目的地丸亀へ向かうことができた。

 

 

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