史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

円山公園 Ⅴ

2020年12月19日 | 京都府

(祇園)

 

薩土討幕之密約紀念碑

 

 祇園は京都市内でも随一の繁華街である。夜の賑わいに比して、昼間はそこはかとなく脱力感の漂う街と化す。その一角に昨年(令和元年(2019))薩土討幕之密約紀念碑が建てられた。この場所は、実際に密約が結ばれた小松帯刀邸ではなく、密議が交わされた祇園の料亭近安楼跡である。

慶応三年(1867)五月十八日、土佐藩の乾退助、福岡藤次(のちの孝弟)、中岡慎太郎と広島藩の船越洋之助(のちの衛)が近安楼で武力討幕の密談を交わした。その三日後、中岡の仲介で薩摩の西郷と乾退助との間で薩土討幕の密約が結ばれた。乾は国もとに帰り、軍制の改革、近代式練兵を行ってその日に備えたが、一方で坂本龍馬の提唱する大政奉還論を主体とした薩土同盟が後藤象二郎によって結ばれている。乾は大政奉還に猛反対するが、山内容堂によって解任されてしまった。しかし、同年十二月二十八日、風雲急を告げると、西郷隆盛は土佐藩に対し出兵を要請。この時、容堂は「この戦争は薩長と会桑との私闘であり、戦闘に参加してはならない」と厳命を下したが、それに反して慶応四年(1868)正月四日の伏見での戦いに土佐藩兵(山田喜久馬、吉松速之助、山地忠七、北村長兵衛ら)は参戦した。遅れて土佐から乾退助も出陣し東征軍に加わった。土佐藩が明治新政府で薩長肥とともに一角を占めることができたのは、薩土密約により討幕の兵を出したことが大きな意味を持つことになった。

 

 

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