史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

山手

2016年05月20日 | 神奈川県
(根岸外国人墓地)
JR山手駅を北に出て徒歩一分。根岸外国人墓地の入口がある。横浜外国人墓地が手狭になったため、明治十三年(1880)、新設を認められたものである。しかし、墓地の管理問題や立地が不便だったこともあり、本格的に使用されたのは、明治三十五年(1903)以降と考えられるが、確認しうるもっとも古い被葬者の没年は二十四年(1892)まで遡るという。


J.H.Dunker Cuirtius
Kin
Anna


Boudewyn
2nd Beloved Son of J.H.Dunker Curtius

 まず、ドンケル・クルチウス兄弟の墓である。ドンケル・クルチウス(1813-1879)といえば、幕末の最後のオランダ商館長。ライデン大学法学部を卒業後、東インド高等軍事法院議官などを歴任。(1852)長崎に赴き商館長に就いた。安政二年(1855)、外交代表を兼ね、日蘭和親条約に調印。安政五年(1858)には日蘭修好通商航海条約を締結した。在任中にはオランダの支援により長崎海軍伝習所の設立に関与し、そのために軍艦ズームビング号(日本名・観光丸)を寄贈し、カッティンディーケらの派遣に尽力した。万延元年(1860)に帰国している。
 クルチウスの七人の子供のうち、三男ボードウィン・クルチウスと四男ヤン・ヘンドリック(二世)・クルチウスの兄弟はともに父がインドネシア、スラマン勤務時に現地で生まれた。ヤン・ヘンドリック二世は明治三年(1870)十月から明治六年(1873)十月まで、ボードウィンは明治四年(1871)九月から明治五年(1872)八月まで、徳島藩の外国語学伝習所の教師として英語やフランス語、ドイツ語を教授し、藩主蜂須賀茂韶の家庭教師を務めた。茂韶は語学力を活かして、イギリス・オックスフォード大学に留学し、帰国後は東京府知事、貴族院議長、文部大臣などを務めた。兄弟はオランダ公使館勤務を経て横浜に定住し、ボードウィンはメンデルソン兄弟商会などに勤務した。ヤン・ヘンドリックもオランダ貿易会社勤務の後、日本優先に奉職。明治二十八年(1895)には社長に就任している。墓石に刻まれているKinとは、夫人小山キンのことで、六人の子供に恵まれた。


Edward Edmund Kildoyle

 キルドイルは、居留地の堀川通りで最大手の鉄工所を営んでいた。来日は明治十一年(1878)頃といわれる。最初は小さな鍛冶工場から始め、明治二十年(1887)には日本人職工数三百八十四名を抱えるまでになった。その後、ほかの工場を合併する等して職工数五百人を越えた。昭和三年(1928)死去。なお、子息デニスは、極東国際軍事裁判の被告となった東郷茂徳の通訳を務めた。


Alan Owston

 オーストンはイギリスのサリー州パーブライトの出身。明治四年(1871)頃、レーン・クロフォード商会の社員として来日し、明治十四年(1881)には輸入商のオーストン・スノー紹介を設立した。オーストンは明治十八年(1885)にスノーとの共同経営を解消し、個人で営業を続け、蒸気機械や船具、鉄管類、ゴムなどを扱った。オーストンはヨットマンとして有名で、横浜セーリング・クラブの初代評議員に就任し、明治三十五年(1902)には横浜ヨットクラブの副会長にもなっている。また海洋生物を中心とする動物の研究家でもあった。明治二十八年(1895)には横浜動物商会を設立した。


John Hartley

 ハートレーは元治元年(1864)十月、来日。加賀藩のサムライに英語を教える代わりに日本語を習い、商用に差し支えないくらの日本語を習得して、薬品を輸入するほか、茶、生糸、銅貨、ボロ布の輸出を手掛けた。明治十年(1877)にはアヘンを輸入して問題となった。翌年商館を閉鎖して帰国したが、明治三十二年(1899)、再び横浜に戻って知人らと旧交を温めた。明治四十四年(1911)死去したが、没地は不明。何故、横浜に墓があるかも不明であるが、故人の遺志か、周囲の人たちの配慮により、思い入れのある土地に埋葬されたものであろう。
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